天王寺・岡山での最終決戦

(てんのうじ・おかやまでのさいしゅうけっせん)

徳川軍:徳川軍主力(150000)
豊臣軍:豊臣軍主力(50000)
戦  場:摂津国天王寺・岡山口

【俺達に明日はない】1615年5月6日の夜、豊臣軍の雰囲気は暗かった。当日までの樫井道明寺若江八尾の戦いで豊臣軍はことごとく敗北して後藤基次木村重成薄田兼相塙直之など多数の勇将を失っていた。残った長宗我部盛親隊なども当日の戦いで消耗しており前線に立てるような状況ではなかった。この絶望的な状況に、盛親は家臣に対して「汝らは落ちのびろ。もうこの城で功を立てるのは無理だ。俺も必ず生き延び再び立つ機会を待つ」と言うほどだった。
 しかしここに来てもまだ希望を捨てない男達がいた。真田幸村毛利勝永らである。5月7日早晩、幸村は大野治長の陣を訪れ、勝永も加わって3人で作戦を話し合った。その内容は『全軍を茶臼山から岡山口に並べて敵を引き付け先鋒を撃破する。そして豊臣秀頼が出陣し徳川家康の本陣を目指す。それと同時に明石全登隊が迂回して家康の背後に回り込み、とどめを刺す』というものだった。その決定を全軍に知らせ陣容を整え徳川軍を待ち構えた。

大阪城とその周辺
大阪城とその周辺

【戦国最大の野戦】一方の徳川軍も5月6日の戦いで藤堂高虎などが損害を出したが、大半は無傷のまま大坂城に向かって進撃していた。5月7日の真夜中、総大将の徳川秀忠と家康は前日の戦場を視察した後、大坂城を目指し、午前10時に平野に着いて陣を構えた。諸将も夜中に出発し、午前中には大坂城南に陣を構えた。ここで両軍の編成を見てみよう。

豊臣軍の兵力
天王寺口 16800
真田幸村真田幸昌/ 真田信倍  3500
大谷吉治渡辺糺伊木遠雄  2000
江原高次槇島重利/ 本郷晴賢/ 早川長政/ 福富平三郎  ?
毛利勝永毛利勝家/ 山本公雄/ 樫井昌孝  4000
福島正守/ 福島正鎮/ 吉田好是/ 篠原忠照/ 石川貞矩/ 結城勝朝/ 浅井井頼竹田永翁  2500
木村宗明/ 湯浅正寿小倉行春樋口雅兼/ 内藤忠豊/ 織田信次/ 三浦義世/ 稲木教量/ 津田信純  ?
大野治長木村重成後藤基次らの残兵  ?
岡山口 4600
大野治房/ 布施伝右衛門/ 新宮行朝岡部則綱/ 岡田正繋/ 中瀬定純/ 二宮長範/ 正徳院/ 御宿政友  4000
山川賢信北川宣勝  600
遊軍(七手組) 14200
堀田盛高 3000
野々村吉安 1200
中島氏種 2000
速水守久 3000
伊東長次 3000
真野頼包 1000
青木信就 1000
船場 300
明石全登 300
城北 3300
長宗我部盛親 300
仙石秀範/ 津田主水/ 大場土佐/ 浅香長門/ 武光式部/ 幾田茂庵  3000
城内 3000
豊臣秀頼/ 郡良列/ 津川親行大野治長  3000

合計 42200

徳川軍の兵力(南側のみ)
天王寺口(先鋒) 5500
秋田実季 1000
浅野長重 1000
本多忠朝 1000
松下重綱 200
真田信吉 2300
天王寺口(第二陣) 19840
松平忠直15000
諏訪忠恒540
榊原康勝2100
保科正光600
小笠原秀政1600
天王寺口(第三陣) 31200
内藤忠興 600
松平康長 600
酒井家次 1000
松平忠良 800
堀直寄 600
水野勝成 600
本多忠政 2000
松平忠明 1000
一柳直盛 1000
徳永昌重 1200
伊達政宗 10000
村上義明 1800
溝口宣勝 1000
松平忠輝 9000
天王寺口(後衛) 5000
浅野長晟 5000
天王寺口(本陣) 15000
徳川家康 15000
岡山口 51100
前田利常本多康俊/ 本多康紀/ 片桐且元/ 片桐貞隆  20000
藤堂高虎 4500
井伊直孝 3000
細川忠興 ?
徳川秀忠青山忠俊・ 水野忠清・ 内藤清次・ 松平定綱酒井忠世土井利勝本多正信本多正純高力忠房立花宗茂安藤重信)  23000

合計 127640

 戦力差は3対1。豊臣軍が勝てる可能性はほとんどなかった。

【開戦】正午になった頃、徳川軍の本多忠朝隊1000が発砲を始め、それに対して毛利勝永隊が応戦し始めた。これを真田幸村の陣営で知った勝永は作戦が台無しになると、伝令に発砲の中止を伝えさせたが兵はやめようとしない。そのため勝永自身が制止しようと前線に向かったが逆に発砲が激しくなるばかり。そこで勝永は戦術を変更し兵を折り敷かせ(左ひざを立て、右ひざを曲げて、腰をおろした姿勢)、本多隊との距離が100メートルほどになった時に一斉射撃をさせた。これを食らった本多軍は70人余りの死傷者を出し、出鼻を挫かれた。

本多忠朝の墓
大阪市天王寺区逢阪の一心寺にある本多忠朝の墓

【疾風・毛利隊】それを見た勝永は、息子の勝家・山本公雄など右の部隊を秋田実季・浅野長重隊らに、浅井井頼・竹田永翁ら左の部隊を真田信吉・信政兄弟に向かわせた。それと同時に本隊を左右に分けて本多隊の本隊に突入。突撃された本多隊は防戦するが、名のある家臣を次々と討ち取られて壊滅状態となった。
 しかもそこに小笠原秀政隊が割り込んできて大混乱となってしまう。大将の忠朝が自ら槍を振るって味方を叱咤するが、本多隊の敗走は止まらない。それでも忠朝は奮戦するが狙撃され馬から落ちてしまう。忠朝は狙撃兵を殺してなおも奮戦したが、毛利隊が押し寄せて20箇所以上の傷を受け、遂には雨森伝右衛門に首を獲られてしまう。そのため本多隊は壊走した。
 その頃、毛利隊の右の部隊は秋田実季・浅野長重隊らを撃破し、左の部隊は本隊と共に真田兄弟隊に猛攻撃をかけた。真田兄弟は奮戦したものの、毛利隊の勢いには勝てず敗走した。この時に真田の家臣・森佐野衛門が信吉の身代わりになって銃弾を受けるというほどの苦戦を強いられている。

四天王寺南大門
勝永が陣を構えた四天王寺南大門

【撃破に次ぐ撃破】続いて毛利隊は、左の部隊が第二陣で突出していた小笠原秀政隊とそれを援護に来た保科正光隊とぶつかった。浅井井頼・竹田永翁らは真田兄弟隊との戦闘で疲労しており苦戦したが、大野治長隊の一部と後藤基次・木村重成の残兵が小笠原隊を右から側撃したため、形勢は逆転。これを好機と見た勝永は本隊の一部を左から攻撃させ挟み撃ちにした。
 これに対して大将の小笠原秀政は槍を振るって奮戦したが、敵の勢いは止まらず、長男の忠脩を討ち取られ、自身も6ヶ所に傷を負って撤退した(彼はその夜に死亡)。次男の忠真も池に突き落とされ重傷となったが、撤退に成功し一命は取り留めている。これにより小笠原隊は指揮官を一度に失い全隊が撤退していった。そして保科正光隊も毛利隊の攻撃で大将の正光が怪我を負い撤退した。
 その頃、毛利の本隊は第二陣の残り、榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠恒隊に攻撃をしかけていたが、これらの隊は毛利隊のあまりの勢いに耐えられず、すぐに敗走。残った兵は次々と討ち取られていった。

毛利隊と徳川軍前線が戦った辺り
毛利隊と徳川軍前線が戦った辺り

【徳川本陣へ】次に毛利隊はその後ろに控えていた酒井家次・相馬利胤・松平忠良ら5300余りの隊に攻撃を開始した。これらは小大名の集まりで統制も取れていなかったため、毛利隊の相手ではなく次々と敗走していった。そして遂に毛利隊は徳川家康本陣に突入した。

【赤き軍神・真田隊】さてここで少し時を遡って真田幸村隊の動きを見ていこう。毛利隊が本多隊と銃撃戦を開始した時、幸村もこれを止めさせようとしたが、一度始まったものは止まらなかった。しかも総大将の秀頼は、家康からの講和の使者を受け入れたりなどして出馬しない。すべての計画が駄目になった幸村は軍監の伊木遠雄に対して、「事がこの様にすべて食い違っては作戦が行えない。これはもはや我が命が終わる時である」と言い、息子の幸昌を城に返して秀頼の出馬を促す使者とした。
 そしてしばらく様子を見ていたが、毛利隊の善戦で徳川軍天王寺方面の第一陣・第二陣が敗走するのを見て好機と思い、3500の兵を率いて茶臼山から目の前の松平忠直隊15000に突撃を開始した。これに合わせて大谷吉治渡辺糺・伊木遠雄隊2000も松平隊に突撃を開始し、たちまち大混戦となった。

真田幸村像
大阪市天王寺区玉造本町の三光神社にある真田幸村像

【烈風・松平隊】両方とも士気が非常に高く、真田の赤備えとツマ黒(緑の黒い矢羽根という松平家の家紋)の旗が交互に入り乱れた。この越前衆の奮戦は、戦いが終わった後、京都・大坂・堺の子供達が、「掛かれ掛かれの越前衆、たんだ掛かれの越前衆、命知らずのツマ黒の旗・・・♪」と歌いながら戦争ごっこをしたというほどのものだったという。
 しかし後がない真田隊の戦意が勝り松平隊は徐々に押されていった。しかも後方にいた浅野長晟が今宮に移動するのを見て「浅野隊が豊臣軍に寝返った!」という虚報が流れ、裏崩れ(前線から崩れていくのではなく、後方から崩れていくこと)が起きて徳川軍は混乱し、兵が忠直の周りにまで雪崩込んで来た。この状況を打開するために家康は旗本衆を援護に向かわせたが混乱は収まらず、兵は次々と敗走・戦死していった。

茶臼山周辺
茶臼山周辺

【家康、その首もらった!】真田隊は遂に松平隊を蹴散らして家康の本陣に突撃した。すでに混乱をきたしていた家康本陣は更に混乱しろくに戦闘もせずに敗走する兵もいたほどだった。それでも踏みとどまって防戦する者もいたが、真田隊の前に壊滅した。しかし15000もいる家康隊は次々と新手を繰り出してくる。だがそれでも幸村は諦めず、再び突撃を敢行。これによって家康の馬廻り衆が逃げ出し、家康自身も逃走した。この時、家康に従った者は小栗正忠ただ一人だけだったという。

徳川家康の像
駿府城に建つ徳川家康の像

【家康はどこだ!?】その時に毛利勝永も家康の本陣に突入したが、すでに幸村によって蹂躙された後だった。必死に家康を探す勝永だったが、どうしても見つからない。そこに本多忠純隊が攻撃してきたが、一撃で撃退した。家康本陣はこの幸村・勝永の同時攻撃で敗北寸前となったため、岡山口の藤堂高虎隊と井伊直孝隊が救援に向かった。本陣に着いた藤堂隊は毛利隊を側撃、しかしこれも一撃で撃退され敗走した。次に井伊隊が攻撃してきたが、毛利隊は岡山口で戦っていた真野頼包らと共に撃退した。

【真田隊全滅】幸村はなおも家康を追い立てていたが、松平隊が混乱から立ち直り反撃を開始、ついに茶臼山を陣取った。そのため進退きわまった真田隊は壊滅し、幸村も安居神社で一息入れているところを討ち取られる。松平隊は次に毛利隊に攻撃を開始し、これに呼応して一度は敗退した藤堂・井伊隊が反撃してきた。毛利隊は数度の戦いで疲弊しておりこれに対抗できる力はなく勝永は撤退を決める。

真田幸村戦死跡之碑
大阪府大阪市天王寺区逢坂1−3の安居神社に建つ真田幸村戦死跡之碑

【撤退戦】撤退中に毛利隊は土手に火薬をしかけておいてそれを爆発させ、それを合図に七手組と共に反撃に転じた。これにより藤堂隊を破ったが、雲霞のごとく押し寄せる徳川軍を支えることが出来ず城内へ引き揚げた。

【飛燕・明石隊】その頃、明石全登隊300は船場で秀頼の出馬を待っていたが、いつまで経ってもそれがない。そうこうしているうちに豊臣軍が敗北し孤軍となってしまった。そこで毛利勝永隊の援護に向かい、追撃していた松平隊を攻撃してこれを崩し、その後ろにいた水野勝成隊に襲い掛かった。全登は奮戦し水野隊と激戦を繰り広げるが、多勢に無勢。敗色が濃くなり血路を開いて脱出した。

【隼・大野隊】一方の岡山口だが、秀忠は家康からの「開戦はしばらく待つように」という命令を守って待機していた。しかし天王寺口で松平忠直隊と真田幸村隊が衝突したのを見て、開戦命令を発した。そこで前田利常隊の先鋒が進撃を開始、それと同時に藤堂・井伊隊は天王寺口の救援のために岡山口を離れた。豊臣軍の岡山口方面の司令官・大野治房は前田隊を引き付け、近づいてきたところをいっせいに攻撃を開始。そこに秀忠の兵達も駆けつけ大混戦となり、敵と味方の区別がつかなくなった。
 これに対して徳川軍の阿部正次は「味方は遠いところから来たので日焼けして鎧なども汚れて汚い。敵は日に焼けてなく鎧もきれいた。これを目印にしろ」と指示した。当初は拮抗していた両軍であったが、気迫が勝っていた豊臣軍は次第に徳川軍を圧倒。治房は一部を迂回させ遂に秀忠の本陣に突入させた。

岡山口周辺
現在の岡山口周辺

【秀忠本陣を強襲】これを阻止しようと酒井忠世と土井利勝の隊が立ちふさがったが、あっという間に蹴散らされ、大野隊は本陣に迫った。これに対して秀忠は自ら槍をとって戦おうとしたが、安藤重信にこれを止められた。この時の混乱は、後に徳川軍の兵士達が「かかれ対馬(安藤重信)、逃げ大炊(土井利勝)、どっちつかずの雅楽頭(酒井忠世)」と馬鹿にしたほどだった。奮戦する大野隊だったが、残っている隊が前田隊に押され始めたため耐え切れなくなってきた。しかたなく治房は撤退を決め軍を終結して大坂城に退いていった。

【城内に戻る】徳川軍はこれを追撃し城に迫ろうとした。これに対して治房は稲荷祠のあたりで敵を迎え撃ち、槍衾を作り追撃を止めた。が、これは一時のことで大軍を擁する徳川軍の進撃は止まらず、さらに大野隊に迫ってきた。そこで豊臣軍の北村五郎は、弾薬箱を外に置き、味方が大坂城に入るのを確認すると、火矢を放って、弾薬を爆発させた。これにより徳川軍に多数の損害が出た。

大阪城天守閣
大阪城天守閣

【城内に乱入】5月7日午後4時、天王寺と岡山の両方で豊臣軍が敗北したため、徳川軍は遂に城内に乱入。大坂城の東北に陣を敷いていた京極忠高・石川忠総らは豊臣軍の敗北を知って備前島へ進撃し、天満方面に陣を敷いていた池田利隆も同じく進撃を開始した。豊臣秀頼は敗北を知って、出馬して戦死しようとしたが、速水守久に止められ出馬を取り止めた。その後、裏切り者が城内の台所に火をつけ燃え上がったため、これを見た徳川軍は城内に殺到。豊臣軍の兵達は次々と逃げ出し大坂城は徳川軍の手に落ちた。翌日、秀頼一行も自害し豊臣家は滅亡した。
 緒戦は毛利勝永・真田幸村・大野治房らの奇跡的な奮戦で豊臣軍は徳川軍を追い詰めるが、後続が続かず結局は敗北してしまう。

天王寺・岡山での最終決戦、合戦図
天王寺・岡山での最終決戦、合戦図

管理人・・・う〜、時間がかかった>< これ作るの半月もかかってしまった、、、。こんな長い文章を読んでいただいた方、ありがとうございました(*^^)/。
 では、合戦に関する感想を色々書いてみようと思います。まずはなんと言ってもかっこいいのが、この合戦の主役・毛利勝永です。
 僅か5000の手勢で、16の部隊、合計20000の部隊を撃破か撃退させています。見事です。しかも奇襲じゃなくて真正面から突っ込んでですから。まさに『毛利日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由』ですよ。

茶臼山
真田幸村が本陣を置いた大阪市天王寺区にある茶臼山

 あと岡山口で奮戦した大野治房も素晴らしいと思います。秀忠軍をあそこまで危機に陥れているんですからもっと評価されてもいいと思います。
 以上、豊臣軍最強の男・毛利勝永とその他豊臣軍諸将大々々活躍の天王寺・岡山での最終決戦でした。

 最後に。これで合戦一覧は終わりです。最初から見ていただいた方、お疲れ様でした&ありがとうございました。

UPDATE 2002年12月25日
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