前田利常

(まえだとしつね)

生没年:1593〜1658年/ 身分:加賀・能登・越中120万石の大名/ 官位(通称、号):筑前守

金沢城
石川県金沢市丸の内1-1にある前田家の居城・金沢城

【加賀百万石を継ぐ】前田利家の四男。1600年に丹羽長重へ人質として送られるが、長重が関ヶ原の戦いで西軍につき改易されたため金沢に戻った。1601年、兄で前田家を継いでいた利長の後継者となり、徳川秀忠の娘・珠と結婚する。1605年、利長の隠居にともない、わずか13歳で前田家の三代目となった。
 大坂の陣が起こると、1万2千という外様大名最大の兵力を率いて出陣。真田丸の前面に陣を構えたが(最初は岡山口)、前線が真田幸村の策略にひっかかり、遮二無二攻めたため大損害を出してしまう(真田丸の攻防)。しかし夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦では3200の首級を上げる大活躍をしたため、その戦功で参議に任ぜられた。

前田利常の像
石川県小松市丸の内公園町19の芦城公園にある利常の像

【幕府に警戒される】前田家は120万石という徳川宗家を除くと最大の領土を持っていたせいで終始幕府に警戒されたため、利常は非常に気を使っている。豊臣恩顧の大名達が改易されると様子をさぐらせ、また無能に見せるための演出を怠らなかった。
 しかし、それでも幕府の疑いは解けることはなく、1631年秀忠が病床につくと、前田家謀反の噂が流れ始めた。これに危機感を抱いた利常はすぐに横山康玄を老中・土井利勝の元にやり、自身も江戸で申し開きをしている。また妻のルートからも弁明に務め、その甲斐あって何とか謀反の疑いは晴らすことが出来た。それから更に無能を装いはじめ、周りを呆れさせる行動を沢山取っている。中でも利常が鼻毛を伸ばして馬鹿を演じていたのは非常に有名な話しである。

前田利常の墓
石川県金沢市野田町野田山の野田山墓地にある前田利常の墓

【隠居】1639年、長男の光高に家督を継がせ、次男・利次に富山10万石、三男・利治に大聖寺7万石を与え、自身は小松に隠居した。しかし1645年に光高が僅か31歳で死去したため、その息子・綱紀の後見をしている。1658年10月12日死亡。

管理人・・・苦労人です。元和・寛永の改易の嵐から逃れるために大変な苦労をしています。鼻毛以外にも馬鹿を演じていた話があり、利常が睾丸などが痛んで登城を休んだ次の日、酒井忠勝にあって実際に性器を見せて申し開きをするなど、涙ぐましい努力をして加賀藩を守っています。
 利常という名が有名ですが、1626年まで利光と名乗っています。以上、その智恵と努力で加賀藩の基礎を築いた前田利常でした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国大名諸家譜戦国人名事典 コンパクト版大坂の役、ほか

UPDATE 2002年3月26日
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