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5月6日の朝には先頭の木村隊は若江村に、長宗我部隊も若江村の南にある久宝寺村に到着した。 その頃、徳川軍の先鋒・藤堂高虎軍は八尾と玉串川を挟んだ向かい側の千塚にいたが、道明寺の方から銃声が聞こえ始めたため、援護に行こうと軍を進めていた。だがそのとき八尾・若江方面に豊臣軍がいるという報告が入る。立ちこめていた霧の為、藤堂軍は今までまったく気がつかなかったのだ。道明寺方面では後藤基次を死に追いやった霧であったが河内方面では逆に豊臣軍の有利に働いた。これを知った高虎は家康に判断を仰ぐべきかと判断に迷ったが、軍勢はすでに目の前、報告している暇はないとすぐに西の八尾方面に軍を進撃させる。
この時、盛親は藤堂軍が向かってきたのを知ると『一番あたりたくない相手とあたってしまった』と内心感じた。藤堂家と長宗我部家は豊臣政権下の頃、かなり親しくしていた。そのため、長宗我部家が改易になったときも、高虎が多数の長宗我部家臣を引きとってくれており、藤堂軍には旧臣達が多数いた。だからと言って戦闘を避けるわけにもいかなかった。 【敗退】盛親は急いで先鋒の吉田内匠達を引き返させ本隊と合流させようとしたが、時すでに遅く藤堂軍が鉄砲を撃ってきて戦闘に入った。吉田隊もよく奮戦したが、鉄砲を装備していなかったため、藤堂軍に散々に打ち破られ、吉田内匠も死亡する。ちなみに長宗我部隊の陣法は少し遅れており、普通は先鋒に大兵力をつけるものだが、土佐では物見程度にしか考えおらず、大した戦闘力を持たせていなかった。そのため吉田隊は火器を装備していなかったのだ。初戦は藤堂軍の勝利に終わる。
さらに長宗我部隊が左右からの挟撃も開始したので、藤堂軍は大混乱に陥る。部隊長が次から次へと討ち取られ、藤堂高虎までもが逃げ回るありさまで壊滅一歩手前だった。この時、長宗我部隊先鋒を破った藤堂高吉らが駆けつけ、なんとか長宗我部隊の勢いを鈍らせることができたが、不利な状況には変わりなかった(ちなみに木村隊に向かった藤堂良重・藤堂良勝らは敗北していたため援護には来られなかった)。
盛親の采配の妙、霧のため敵に発見されるのが遅くなったこと、藤堂隊の足並みの乱れなどが重なって、ある瞬間までは長宗我部隊の完全な勝利だった。
一方の高虎の方も可哀想です。運が悪くて敗北しただけなのに、なんかこの戦いだけ見ると上司のご機嫌取りに終始している戦下手な武将みたいです。信用あるから先鋒を任されたんでしょうに。以上、長宗我部氏の有終の美を飾った八尾の戦いでした。 UPDATE 2000年2月11日 Copyright (C) 2000 Tikugogawa. |
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