小笠原忠脩

(おがさわらただなが)

生没年:1594〜1615年/ 身分:信濃松本8万石の大名の子/ 官位(通称、号):信濃守

小笠原秀政・忠脩の墓
長野県松本市里山辺5112の広沢寺にある小笠原秀政・忠脩の墓

【家康の孫】小笠原秀政の長男。母は徳川家康の孫(信康の娘)。幼名・幸松丸。元服すると徳川秀忠の一字を賜り忠脩と名乗った。

【軍費不足】大坂冬の陣では小笠原軍を率いて出陣する。この陣は非常に軍費を消費したらしく国許に「食料が来ないので、大津と大坂で現地調達した。そのため軍費がなくなったので至急送ってくれ」と手紙を出している。

【父と共に・・・】夏の陣は父が軍を率いて出陣したので松本城の守備を命じられたが、江戸に飛脚を送って出陣を願い出た。しかし許されなかったため無断で出陣し、小笠原軍に合流した。これは家康からその勇気を誉められる。天王寺・岡山での最終決戦で小笠原軍の名誉回復のために奮戦し父と共に戦死した。享年22歳。信濃浅間の法性寺に葬られた。

参考文献:松本市史・三百藩藩主人名事典日本の戦史 大坂の役

UPDATE 2002年10月12日
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