立花宗茂

(たちばなむねしげ)

生没年:1569〜1642年/ 身分:陸奥棚倉3万石の大名/ 官位(通称、号):左近将監

【名将達の息子】高橋紹運の息子。立花道雪の婿養子。大友家の家臣で1585年に道雪が死亡すると家督を継いだ。1586年に九州制覇を目指す島津軍が紹運の篭る岩屋城を落とし、宗茂の篭る立花山城を包囲したが死守し豊臣秀吉軍が来るまでの時間を稼いでいる。

立花宗茂の墓
福岡県柳川市奥州町32−1の福厳寺にある立花宗茂の墓

【武勇】島津家の降伏後、筑後柳川13万石を与えられ独立大名となる。朝鮮出兵に従軍し碧蹄館の戦いで小早川隆景とともに明の大軍を破った。関ヶ原の戦いでは西軍につき近江大津城に篭る京極高次を落としたが、石田三成ら主力が負けたため帰国する。
 戦後改易され浪人となり江戸に赴いたが1605年に徳川秀忠が将軍となるとそのお相伴衆に加えられた。1608年に陸奥棚倉1万石の大名として復帰する(後に3万石に加増された)。

【返り咲き】大坂の陣では秀忠に従軍し彼に助言を与えた。その功などで1620年に筑後柳川11万石に返り咲く。島原の乱では高齢にも関わらず出陣し鎮圧に貢献した。1642年11月25日死亡。法名・大円院殿松陰宗茂大居士。江戸下谷の広徳寺に葬られたが、のちに柳川の福厳寺に改葬された。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2004年2月21日
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