松平忠直

(まつだいらただなお)

生没年:1595〜1650年/ 身分:越前福井67万石の大名/ 官位(通称、号):三河守

結城秀康の像
福井県庁内にある父・結城秀康の像

【制外の御家】徳川家康の次男・結城秀康の息子。秀康が1607年に亡くなると忠直はその後を継いだ。幕府はこの越前松平家を将軍の兄ということで『制外の御家』と呼び特別に扱う。しかも秀忠の三女・勝姫を嫁にして、ますます特別な立場となっていった。

【昼寝でもしてろ】大坂の陣が始まるとで一万を率いて出陣。八丁目口を攻める役目を負う。冬の陣では真田幸村に乗せられ、大坂城を攻め散々な目にあわされている。(真田丸の攻防)。
 1615年5月6日、夏の陣の若江八尾の戦いでは、井伊直孝藤堂高虎軍が豊臣軍に苦戦しているのに陣で酒を飲み寝過ごし兵を出さなかった。これもまた家康の激しい怒りを買い、当日の夜に次の日の大坂城攻めの部署を聞きにいったところ、『お前の部署はない。昼寝でもしておれ』と言われてしまう。

福井城
福井県福井市大手にある松平忠直の居城・福井城

【徳川軍一の活躍】これを恥じた忠直は抜け駆けしてでも戦功を立てようと誓い、暗闇の中を最前線まで軍を移動し朝を待った。5月7日の天王寺・岡山での最終決戦では、正面の真田隊と対陣。一度は幸村に陣を突破されたものの態勢を立て直すと幸村以下3700人の首を挙げるという大戦果をあげている。
 この活躍は家康に激賞され、三大名物茶入と称されるほどの名器・初花を与えられた。これに気を良くした忠直は領地加増を期待したが、それに反して1石も加増されなかった。これに怒った忠直が初花を地面に叩きつけたと言われているが実際はそのようなことはなく、その後も徳川家の宝として残っている。

【乱行】1617年、この大坂の陣に関しての不満がたまっていたところに家康の九男と十男が忠直の官位を越えて中納言になったために遂に爆発してしまう。妊婦の腹を斬り胎児を見るという異常な性癖が出始めたのだ。このほかにも奇行が目立ち始め、1622年に大事件を起こしてしまう。家臣の未亡人を自分のものにしようとして、それを断られると一族を惨殺し、未亡人本人と妻の勝姫をも殺そうとしたのだ。それを察知した侍女が入れ替わると、それを忠直が斬り捨ててしまい城中は大騒ぎになる。
 重臣達がこの騒動を幕府に訴えでたため1623年に嫡子・光長に家督を譲る形で決着がつき、忠直は豊後に流された。剃髪して一伯と号した忠直は1650年9月に亡くなるまで静かに人生を送っている。墓所は大分市の浄土寺。

忠直の墓
大分市王子西町8―35の浄土寺にある忠直の墓

管理人・・・この人も不幸な家康の親族の一人ですね。父の秀康も秀忠より武将として立派だったのに将軍になれないまま亡くなっているし。忠直も将軍になっていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
 茶入ですが、壊れてはないものの傷がついているようで、この傷を元に忠直が叩きつけた話しが作られたみたいです。
 あと、乱行の件ですが、これは事実ではなく、幕府からでっちあげられて、配流されたとの説もあります。以上、松平忠輝と同じような人生を送った忠直さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典大坂の陣名将列伝大坂の役、ほか

UPDATE 2002年2月14日
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