真田幸村

(さなだゆきむら)

生没年:1567〜1615年/ 身分:大坂城五人衆/ 官位(通称、号):左衛門佐

真田幸村像
大阪市天王寺区玉造本町の三光神社にある真田幸村像

【智将の家系】本名「信繁」。信濃上田城主・真田昌幸の次男。父の昌幸は、豊臣秀吉に『表裏比興の者』と評された人物で、自分の才覚だけを頼りに小大名ながら、戦国時代を生き抜いてきた。幸村は真田家のために上杉・豊臣家に人質として出されている。

【決戦・関ヶ原】1600年、関ヶ原の合戦がおこると、昌幸と幸村は石田三成の西軍についた。1600年9月5日、真田親子は中山道を通り関ヶ原へと急いでいた徳川秀忠軍3万8千を釘付けにし、ついには主戦場への到着を遅れさせると言う大戦果をあげる。しかし主戦場の関ヶ原で西軍が敗北したため、所領を没収、紀伊九度山(最初は高野山)に蟄居することになった(本当は死罪を秀忠が主張していたが、信之の必死の嘆願で、それだけは免れた)。

蓮華定院
真田親子が最初に蟄居させられた和歌山県伊都郡高野町高野山700にある蓮華定院

【辛い生活】九度山での生活は決して楽なものではなかった。信之からの仕送りがあるので、食うや食わずということはなかったが、元大名のプライドがある昌幸は浪人になってもある程度の生活レベルを維持しないわけにはいかなかった。そのため何かと金がかかり、借金をすることも度々だったと言う。結局、家康の怒りは解けないまま、1611年6月4日、昌幸はこの世を去る。

【武勇轟く】1614年10月、豊臣家に味方になるよう誘われた幸村は了承し、九度山を脱出して大坂城に入った。そこで幸村は出撃策を提案したが却下され、籠城となったので、防御の弱い大坂城の南側、三の丸南に出城(通称『真田丸』)を構築する。
 1614年12月4日、幸村は徳川軍を挑発し真田丸へ誘いこみ、前田利常井伊直孝藤堂高虎といった軍を徹底的に叩く(真田丸の攻防)。

志紀長吉神社
幸村が戦勝を祈願して六文銭の旗を奉納した大阪市平野区長吉長原2にある志紀長吉神社

【関東勢百万も候え、男は一人もなく候】和議が破られた1615年5月、幸村は毛利勝永後藤基次らと共に大和口に出撃する。だが、ここで霧のために真田・毛利隊の到着が遅れてしまい、先行していた後藤隊が敗北してしまう。
 おのれを責める幸村であったが、徳川軍はそんな彼の心情とは関係なく遅れてきた彼らに襲いかかった。ここで真田隊は伊達政宗軍を迎え撃つことになった。だが、これも幸村の味方の心理を把握した的確な指示で逆に撃退している(道明寺の戦い)。この後、撤退する豊臣軍を徳川軍で誰一人追ってくるものはなく「関東勢には男が一人もいないのか」と言ったのはあまりにも有名である。

【日本一の兵(ひのもといちのつわもの)】大坂城南に徳川軍が終結した5月7日、幸村は家康の首を取る秘策のために豊臣秀頼の出撃を乞う。だが、これも淀殿の反対で中止になってしまう。それでも最後まで希望を捨てず、徳川軍本陣に向かって真っ直ぐに突撃を敢行する。この時の幸村の活躍は、最後の意地を見せた豊臣軍の中でも一番目立っており、徳川家康を三里(約12キロ)も敗走させ、切腹を覚悟させることもあるほどであった(天王寺・岡山での最終決戦)。しかし結局は後詰のない豊臣軍は疲れのため全滅し、幸村も疲労の為に安居神社で休んでいるところを西尾宗次に討たれ生涯を閉じる。
 大坂夏の陣での幸村の活躍を島津家の薩藩旧記では、以下の様に記している。『真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由』。幸村は希望通り名声を得て、この世を去った。

真田幸村像
上田市の上田駅前に建つ真田幸村像

管理人・・・ドラマとかだとかっこいい人が演じていますが、実際の幸村は歯の抜けた初老の男だったそうです。でも、やはりかっこいい人に演じてもらいたいですよね(ファンの人は、ですが)。
 この「大坂の陣絵巻」のコンセプトは「大坂の陣で活躍したのは幸村だけじゃない!」ってのもありますから、良ければ他の人の紹介も見て下さい。以上、誰もが知ってる人気者、幸村さんでした。時代が変わっても彼の名前だけは永遠に人々に忘れられることはないでしょう。

参考文献大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略奮迅真田幸村―戦国でもっとも強い漢真田戦記

UPDATE 1999年10月16日
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