真田丸の攻防

(さなだまるのこうぼう)

豊臣軍真田幸村後藤基次長宗我部盛親木村重成隊など(25600)
徳川軍前田利常松平忠直井伊直孝藤堂高虎軍など(33000)
戦  場:摂津国小橋村(真田丸周辺)

【出城・真田丸】大坂城は西に瀬戸内海、北には天満川・淀川、西には大和川の支流があり、地形的な防御力にも恵まれていたが、南側だけが陸地が広がっており、そこが唯一の弱点であった。そこに目をつけたのが、後藤基次と真田幸村だ。二人は南側に出城を築き敵の攻撃に備えるよう豊臣家上層部に提案する。これは受け入れられたものの、どちらがそこを受け持つのかが問題であった。
 二人とも持ち場を譲ろうとせず、両雄の間に亀裂が生じ始めた。しかも城内に『幸村が城南にこだわるのは、兄の信之と連絡を取って城に敵兵を入れるためだ』という噂まで広がり始めた。それを聞いた基次は「幸村殿が出丸に移って戦いを挑もうとするのは、そのようなことを言う痴れ者がいるためだ」と言い、出丸築城を辞退した。基次には疑惑を持たれている幸村の辛い立場が良く理解できたのだ。
 結局、出丸は幸村が平野口の正面・惣構の南東に築き、彼の名字を取って真田丸と呼ばれた。その構造は扇形の城砦で三方に空堀と二重の柵をめぐらし、櫓と楼閣を設置し、1.8メートルごとに銃眼六個を開いているという堅固なものだった。ちなみに南東が特に弱点であったわけではない。南の篠山を使って囮作戦をするためにそこを選んだものと思われる。

明星高校
真田丸があったとされる大阪市天王寺区餌差町周辺(写真は明星高校)

【晴れない疑惑】真田丸を築く時、後藤基次は大野治長から「本当に幸村は徳川軍に内応しないのか?」と相談を受けている。その時、基次は「幸村殿に限ってそのようなことはありえない。ただ、華々しく活躍して武名を残そうと思っているだけだ」と否定している。だがそれでも疑惑は完全に晴れることはなかったらしく、真田丸と惣構を繋ぐ枡形は堅固に作られ、ここに一万の兵を置いた。もしも幸村が敵に寝返った時のためであった。

【大砲】真田丸の南に小橋(おばせ)の篠山という丘があり、そこにも兵を出して守備をさせていた。1614年11月11日以降、徳川軍は徐々に包囲網を縮め城南に迫り、城から1.5キロのところに柵を設け、陣を構えた。
 12月、城南を視察した徳川家康は力攻めは多大な損害を出すことになるだけだろうと判断し、前田利常に「急に城を攻めてはならぬ。まずは貴殿の陣地に塹壕を掘り、高々と土塁を築いてから、そこに大砲をもって打ち砕け」と命じた。利常はその日から作業に取り掛かったが、これは真田丸の望楼から丸見えであった。幸村はこれを阻止しようと、前田利常の陣の正面・小橋の篠山の兵を増員して作業員を射撃した。それにより前田軍に百人程の死者が出た。幸村はこれを数日間続けた。

小橋村
現在の小橋村(大阪市天王寺区小橋町)

【挑発】1614年12月3日、徳川秀忠が利常の使者に本多正信を遣わして「本営を岡山に移すので、篠山を奪取せよ」と命じた。これを受けた前田利常は本多政重隊を翌日の4日午前2時に篠山に向かわせた。敵の激しい抵抗を予想していた本多隊であったが着いてみるともぬけの殻。真田隊は前田軍の動きを事前に察知していたので兵を引き揚げていたのだ。その本多隊の動きを抜け駆けと感じた同じ前田軍の横山長知隊と山崎長徳隊は、自分達も篠山方面へ向かった。しかしそこが味方に占領されていることを知ると、このまま真田丸をと思い、2つの隊はさらに前進した。夜なので道に迷いながらなんとか真田丸についたが、真田隊は一向に攻撃してこない。
 両隊の動きを見て、本多隊も急いで真田丸に駆けつけたがそれでも攻撃はない。真田の兵はこれは好機と幸村に攻撃させてくれと願い出るが、それを拒否し、兵を眠っているように見せかけた。少し時が経った後、幸村は一人の兵を呼び、城壁から口上を述べさせた。内容は以下の通りである。
 「前田家の方々、篠山を囲んだようだが何のためですか?狩りですか?鳥獣なら貴殿らの発砲で驚いてみな逃げてしまったようですぞ。もし暇があるようでしたら、我らがお相手してもよろしいが。それともこのような小城は相手にできませんかな?」

【その名は左衛門佐信繁】これだけ言われて、しかも大名の名前まで出て、引くことなど出来るはずもない。前田軍の部将・奥村栄頼はこれを聞き大いに怒り部下と共に壁を登ろうとしたところ、今まで静かだった真田丸の火器が火を吹いた。たちまち前田軍は倒され栄頼も重症を負った。本多隊に続けとばかりに他の二つの隊も真田丸に対して攻撃を開始するが、あまりにも激しい銃弾の雨のため先に進むことが出来ない。そこに前田軍の第三備え・富田重政隊も到着したが、これも真田丸の攻撃のために前に進めなかった。
 前田隊は当初、本気で真田丸を攻略する予定ではなかったので竹束や盾を用意してなかった。そのため手も足も出ずに死者が続出したのだ。これを知った前田利常は命令を無視して真田丸まで進んだのを怒り撤退を命じると部隊を篠山まで下げ、本陣を木野村まで進めた。

【八丁目口・谷町口】この真田丸での戦闘を見た井伊直孝と松平忠直は「我々も!」と思い軍を進め、城壁の外柵を破り空堀に身を潜めた。そこで豊臣軍に思わぬ事故が起きた。石川康勝の兵が火薬箱を落としてしまい、それが爆発したのだ。これを城内にいる南条元忠の裏切りの合図と勘違いし(元忠は藤堂高虎と通じ、塀柱の根を切り、徳川軍を導く手はずをするはずだった。しかし裏切りがばれて捕らえられ処刑されてしまっていた)藤堂高虎軍なども攻撃を開始。城南には徳川軍が殺到し総攻撃を開始した。しかし事前に後藤基次が徳川軍の動きを見て近いうちに総攻撃があると判断し兵を移動していたので、八丁目・谷町口の守りは完璧だった。そこを徳川軍が攻撃してきたのだからたまらない。
 木村重成隊は二重の柵を越えることの出来ない井伊・松平軍を撃ちまくり、空堀の中に入った身動きできない兵を皆殺しにした。その上、井伊・松平軍は横の真田丸からも狙い撃ちされ、耐えられなくなった両軍はその場を撤退。500人もの死傷者を出した。これに呼応し真田幸村の息子・幸昌伊木遠雄隊が西の門から出撃し、松倉重政・寺沢広高軍を打ち破った。そこに松平忠直軍が来るが、七手組らが来て銃撃したので、またも松平軍に死傷者が多数出た。豊臣軍はある程度痛めつけると頃合を見計らって城へと戻っていった。

八丁目口
現在の八丁目口

【終結】この城南での戦いは正午まで続く。城内からは後藤基次・長宗我部盛親・北川宣勝明石全登隊などが真田丸と共に猛射撃を繰り返し、徳川軍は次々と死傷者を出していった。対して豊臣軍にはまったく死傷者が出なかった。当然、何度も徳川軍には使者が来て撤退させようとするが、一度戦闘が始まれば収拾は非常に難しい。誰も言うことを聞かず、周りの軍に負けるなとますます戦闘を激しいものにしていった。最終的には家康の使者が来て、井伊軍がまず最初に引き、他の軍もそれに倣った。

長堀通
大坂城総構えの跡(長堀通)

【真田の小倅め!】この戦闘での徳川軍の被害は甚大なもので、死傷者は2千人程にものぼった。家康は松平忠直の部将達を呼び、厳しく叱った。秀忠も井伊直孝の部将に対して同様のことをしている。この時、両将軍は第一次・第二次上田城攻防戦で幸村の父・昌幸に振り回されたことを思い出し、歯がゆい思いをしたことであろう。

【攻め込まれる】翌日の5日夕方、豊臣軍の織田長頼の兵が喧嘩を始め、これに乗じて藤堂高虎軍は兵を進めて城壁を越え、城内に侵入した。長頼の兵は必死に抵抗し、近くにいた女性や子供達までが瓦や石で防戦した。そこに長宗我部盛親隊らが駆け付けたので、何とか藤堂軍を退却させることに成功した。
 この時の騒ぎを知っても長頼は仮病をつかい出てこなかったので、どうやら徳川軍とあらかじめそうして攻め込ませる算段になっていたと思われる。徳川軍はこの後も何度か城に攻撃をしかけているが、結局は死体の山を築いただけで何の成果も得られなかった。
 幸村が巧妙な心理作戦で徳川軍を挑発し、後藤基次がその鋭い洞察力で敵の動きを読み、木村重成以下各隊が見事な連携を見せ、豊臣軍を大勝利に導いている。

真田丸の攻防・合戦図
真田丸の攻防・合戦図

管理人・・・幸村の作戦は本当に見事ですね。この戦い、文章を読んでもらったら分かっていただけると思うんですけど、真田丸の周りよりもむしろ八丁目・谷町口の方の戦いがメインです。でも、そのきっかけを作ったのは幸村なんだからやっぱり主役は彼ですよね。

真田幸村像
大阪市天王寺区玉造本町の三光神社にある真田幸村像

 しかし後藤基次と出城を築くのを争っていたとは、、、。もし又兵衛だったらやっぱり『後藤丸』とかになったのでしょうか?(ごめんなさい、ネーミングセンスがないもので)。もしそうなっていたら幸村は夏の陣でも兵が言うことを聞かずあまり活躍できないまま終わっていたことでしょう。又兵衛の男気に感謝ってところですね。
 しかし又兵衛ってかっこいいですよね。
「ここ最近、東軍は城に迫り、住吉・平野の陣営の連絡を頻繁に取っている。これは近く総攻撃があるようだ。遊撃隊は部隊を南に移動させるべきだ」
 そんな敵の動きを察知して部隊を動かせるだけの男は又兵衛しかいないですよ。

 これは余談なんですけど、真田丸にいたのはどうも真田幸村隊だけじゃないみたいです。後藤又兵衛の近習が「真田丸には長宗我部と真田の半分が守備していたけど、世間は真田一人の出丸のように噂している」と語っています。真田丸って二つの部隊が入れるように作ってあって、そこに長宗我部隊と真田隊が駐屯してたみたいです。でも、まあ築いたのは幸村だし、長宗我部隊はただ応援でいただけだし、あんまり関係ないですね。

 一方の徳川軍ですが欲求不満だったのか、大坂城を張り切って攻めてますね。途中から無理だというのは気づいたでしょうけど、もう引くに引けないですよね。一般的にはこの戦い、幸村一人で敵をおびき寄せて叩いた感がありますが、調べてみると幸村と又兵衛が同じくらい功があるように思えます。
 ちなみに上記の合戦図では徳川家康が茶臼山に徳川秀忠が岡山にいますが、実際にこの頃は家康は住吉に秀忠は平野に陣を敷いています。しかし一般に掲載されている合戦図をそのまま載せました。以上、冬の陣最大の激戦、真田丸の攻防でした。

UPDATE 2001年9月15日
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