浅野長重

(あさのながしげ)

生没年:1588〜1632年/ 身分:常陸真壁5万石の大名/ 官位(通称、号):采女正

毛利隊と徳川軍前線が戦った辺り
毛利隊と徳川軍前線が戦った辺り

【三男坊】浅野長政の三男。母は浅野長勝の娘。幼名・又一郎。1593年に宇都宮国綱の養子となって宇都宮家の家督を継ぎそうになるが、国綱の弟・芳賀高武の反対にあい話しが流れた。
 1600年に徳川秀忠の小姓となり、従五位下采女正に任ぜられた。会津征伐の時に従軍しようとするが幼いということで江戸で留守をする。関ヶ原の戦いで浅野家が東軍に属して勝利に貢献したので長重もその恩恵にあずかり下野真岡2万石を与えられた。1602年に松平家清の娘と結婚する。1611年に父・長政が亡くなるとその遺領・常陸真壁5万石を相続した。この年に江戸城の普請手伝いをしている。
 1613年に浅野宗家で長兄の幸長が亡くなると、宗家の重臣・浅野良重に推され後継ぎ候補となったが結局は次兄の長晟が跡を継いだ。

【夏の陣で苦戦】大坂冬の陣では酒井忠世に属して従軍し、鴫野の戦い本多忠朝軍の援護をした。夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦でも本多忠朝と共に先鋒を命じられる。天王寺での戦いの前半は毛利勝永の猛攻撃の前に敗走したが、徳川軍が反撃に転じると長重軍も奮戦し首級60を獲った。

長重の墓
兵庫県赤穂市加里屋の赤穂市の花岳寺にある長重の墓

【加増を断る】1622年に本多正純が改易されると彼の居城・宇都宮城を守備した。この時、秀忠から加増の話があったが、「父の菩提寺がある真壁を所有したい」とそれを断っている。そこで幕府は真壁の領地を含んだ5万4千石で笠間に移封した。
 1627年に会津の蒲生家でお家騒動が起き伊予松山に減封されたため、次の領主・加藤嘉明が来るまでの間、会津城を任された。その後、江戸城普請など幕府のために尽くし1632年9月3日に死亡する。遺体は常陸真壁の伝正寺に葬られた。

管理人・・・資料には鴫野の戦いで本多忠朝の加勢したって書いてあるけど、何したんでしょうか。忠朝が今福に陣を敷いた時に加勢したってだけかもしれません。本編の戦闘にはまったく名前が出てきません。
 ちなみに彼の曾孫が、浅野内匠頭長矩です。

参考文献三百藩藩主人名事典日本の歴史を騒がせたこんなに困った人たち戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2003年1月31日
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