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1601年5月に従五位下上野介に任ぜられ、下野小山3万3千石の大名となる。1605年に徳川秀忠が将軍職を継ぎ、家康が大御所政治を取り始めると、その最高指導者となった。 正純が特にその才能を発揮したのが、大坂の陣である。『方広寺鐘銘事件』を金地院崇伝と共に画策し、豊臣家の使者として片桐且元が駿府に来た時に応対し、彼に豊臣家が誠意を見せなければ、戦しかないとほのめかしている。その後、淀殿の使者として駿府に行っていた大蔵卿局らを丁重にもてなして、豊臣家上層部に且元を疑いの目で見るように仕向けたのも正純の策略と言われている。
12月末から徳川軍は埋め立てを開始。ところが徳川軍は総構えどころか内堀などまで埋め立て始める。これに慌てた豊臣家は抗議をするが、徳川家の人間はまったく取り合わず、誰も彼もがとぼけるばかり。正純も抗議してきた阿玉の局に対して「あわれ美人なるかな、願わくば盃をたまわらん」などと言い、相手にしなかった。そのため結局、大坂城は丸裸になり、夏の陣を迎え、不利な野外戦をするほかなく、豊臣軍は敗北してしまうのである。
【釣り天井】1616年に家康がいなくなったため、駿府から江戸に行き、秀忠政権の一人となった。しかし幕閣は秀忠の側近だった土井利勝・酒井忠世・安藤重信らが占めており、正純はその中では浮いた存在となっている。
これが秀忠の怒りに触れ、出羽横手に1000石だけ与えられて、佐竹義隆預かりの身にされてしまった。当初、義隆から丁重な待遇を受けていたが、それが幕府に知れると、もっと厳しくするようにと義隆に言ってきた。そのため、義隆は仕方なく、正純の住居の四方を柵で囲み、戸障子を釘付けにして、罪人のような扱いをしている。正純はこの地で1637年に生涯を終えている。遺体は出羽横手の正平寺に葬られた。
管理人・・・家康からは抜群の信頼を得ていたようです。大坂の陣の時でも大活躍しており、鐘銘事件の時も文句を考えた清韓文英を詰問した時も弁解を軽くあしらい、陣所でもいろんな企みをしていたみたいです。
秀忠や側近達は正純などが家康と相談して一方的に命令などを伝えてきていたので、かなり嫌われていたようです。だからあんなに強引なことをされたんでしょう。以上、引き際をわきまえないで、哀しい晩年を過ごした正純でした。 参考文献:三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版・江戸幕閣人物100話・徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜、ほか UPDATE 2002年1月16日Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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