酒井家次

(さかいいえつぐ)

生没年:1564〜1618年/ 身分:上野高崎5万石の大名/ 官位(通称、号):左衛門尉

吉田城
家次が城主だった愛知県豊橋市今橋町にある吉田城

【四天王の息子】父は徳川四天王の一人・酒井忠次。母は徳川家康の伯母。三河に生まれる。1575年に長篠の戦いに従軍し功があった。1584年に家康の元に豊臣秀吉の妹が嫁ぐときに浅野長政らと共に護衛して無事に浜松に送り届ける。
 1586年に父の忠次の跡を継いで三河吉田城主となった。1590年に徳川家が関東に移封されると忠次も下総臼井城の移って3万石の領主となる。

【夏の陣で苦戦】関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従い中山道を進んだが、途中信濃上田城の真田昌幸に足止めを食らって本戦に間に合わず重臣の一人として叱責を食らった。1604年に上野高崎5万石に移封される。大坂冬の陣では先鋒を務め、夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦では当初、毛利勝永隊に蹴散らされるが、徳川軍が攻勢に転じると敵の首級31を獲った。その功で越後高田10万石に移封される。1618年3月15日死亡。法名・梅林院円誉宗慶大居士。和歌山県伊都郡の高野山に葬られた。

管理人・・・家次は高崎で武士と町人の住むところを分けるなど、武士と他の身分との分離をはかったそうです。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜大坂の役

UPDATE 2004年6月3日
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