樫井の戦い

(かしいのたたかい)

徳川軍浅野長晟軍(5000)
豊臣軍大野治房軍(3000(30))
戦  場:和泉国樫井村

【にっくき浅野家】大坂のすぐ近く、紀伊の浅野家は豊臣家に縁の深い家だった。しかし冬の陣は徳川軍として参戦し、夏の陣でも再三の招きにも応じようとしなかった。そこで豊臣軍は徳川軍の出鼻を挫こうと、浅野家に対する攻撃を計画する。まず大野治長が紀伊国内の土豪層などに一揆を起こさせ(紀州一揆)、そして大坂城からも出撃し浅野軍を挟み撃ちにしようとした。
 浅野軍はこの一揆を察知し、他の徳川軍が来るまで出陣を遅らせていたが、板倉勝重より急ぎ大坂へ出陣するよう命令があったので、1615年4月28日、5000の兵を率いて大坂を目指した。そして佐野に着いたところで、密告者から一揆の詳しい計画を知らされ、それと同時に一揆勢を指揮しようとしていた治長の部下・北村善大夫らを捕えている。

樫井川
現在の樫井川

【作戦の齟齬】だが、そのことを知らない豊臣軍は、同じ28日に大野治房を主将とし、塙直之岡部則綱淡輪重政新宮行朝ら3000の兵を和歌山目指して出撃させた。
 豊臣軍は途中、岸和田城を落とそうと攻撃したが、城主・小出吉英はよく守り敵を近寄せなかった。その頃、浅野軍が北上中であることを知った治房は逆に挟撃されてしまってはいけないと考え、岸和田城に備えを残して南下し貝塚に向かっている。

岸和田城
岸和田城

【大混乱】一方の浅野軍は、佐野の市場(地名)にいたが、臣軍が2万の大軍で攻めて来るという報告を聞き大混乱となった。そこで重臣達は軍議を開き、今後のことを話し合った。浅野良重は「ここで死守するべきだ」と主張したが、亀田高綱は「このような平地で大軍を迎え撃つのは不利だ。それよりも樫井まで退却して、松林を前にして防戦すれば敵に人数も知られずかつ大軍を展開されることもない」と反対した。
 そこで二人は言い争いとなり、斬り合いになりかけたが、周りの者が止めて、大将の浅野長晟の決裁を仰いだ。そこで長晟が撤退と決めたため、全軍が退却している(良重は意地を張って最後まで残っていたが結局退却した)。

樫井の戦いの碑
樫井の戦いの碑

【激戦】29日の朝、豊臣軍の先鋒は貝塚を出発したが、塙直之と岡部則綱が自分が先鋒だと争い始め、暴走して進んだ挙句、口論となった。それを淡輪重政がおさめて徐々に進ませている。安松についたところで浅野軍の亀田高綱隊の待ち伏せにあい射撃され20〜30の兵を失った。それから高綱は少し退いては射撃するという戦法を取り、豊臣軍先鋒を徐々に疲弊させていった。これに業を煮やした豊臣軍は追撃の速度を速め、遂に樫井で浅野軍に追いつき、白兵戦となる。ここで浅野軍の上田重安隊が救援にかけつけ、大きな戦闘となったが、結局、豊臣軍は敗北し、塙直之と淡輪重政が戦死してしまう。

樫井の戦い・合戦図
樫井の戦い・合戦図

【凱旋】勝利した浅野軍は、このまま大坂へ向かおうという意見もあったが、最終的に一揆への対策のために紀伊へ撤退していった。その頃、豊臣軍の本隊は貝塚で願泉寺の了閑という僧の策略で饗応を受けていたが、敗残兵が戻ってきて、先鋒の敗北を伝えたため、急いで樫井へと向かった。しかしすでに戦いは終わっており、浅野軍は退却したあとだったので、仕方なく大坂へ引き返した。この撤退の最中、岸和田城に籠もっていた小出吉英・金森可重らに追撃され、数十人を討ち取られている。
 統率がよく取れ、敵の動きを把握していた浅野軍に対して、統率がまったく取れず各々が勝手に戦った豊臣軍とでは戦う前から勝負が決まっていたと言えよう。

樫井の戦い・合戦図2
樫井の戦い・合戦図2

管理人・・・一揆勢とで挟撃するという豊臣軍の計画自体はとても良かったと思うのですが、メンバーが・・・。烏合の衆の一揆勢とならず者の豊臣軍の浪人達では実行するのに無理があります。紀伊に向かうのが、真田や長宗我部の隊なら統率が取れてまだよかったのでしょうけど。
 ちなみに「樫井」の読み方ですが、本によっては「かしのい」って書いてあるのがあります。そういうのは地元の本が多いので、当時はそう呼んでいたのでしょう。以上、先鋒争いで有名な戦い、樫井の戦いでした。

UPDATE 2002年12月2日
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