速水守久

(はやみもりひさ)

生没年:?〜1615年/ 身分:豊臣家領内で1万5千石の領主/ 官位(通称、号):甲斐守

【近江侍】時久・種久・種之とも。速水家は近江浅井郡の土豪で浅井長政に仕えていたが、浅井家滅亡後に豊臣秀吉の家臣となり近江国内に領地を与えられた。のちに近習組頭となり、小牧長久手の戦い・小田原征伐・朝鮮出兵に従軍する。1595年に秀吉が草津温泉に行った時に警護を務めている。1599年の秀吉の葬儀に参加し、1600年に1万石の領主となった。関ヶ原の戦い後に1万5千石となり、七手組の筆頭となる。

山里曲輪跡
守久自刃の地、山里曲輪跡

【調停】1614年に方広寺鐘銘問題が起こり、片桐且元の立場が危うくなると調停役を買って出たが、結局、豊臣家上層部の疑いは解けなかった。且元が大坂城から出て行く時にこれの護衛をしている。この後、豊臣家上層部は今後のことを話し合うために七手組を招いたが、組のみんなが上層部に不信感を示し、会議に出たくないと言い始めたので、守久はこれをなだめてなんとか会議に参加させている。

【豊臣家に殉じる】大坂冬の陣が始まると、4000の兵を率いて西の丸を守備し、鴫野の戦い上杉景勝軍相手に奮戦している。夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦では遊軍として真田幸村隊の後ろに陣を構え、藤堂高虎を破るなど奮戦したが、結局豊臣軍は敗北し大坂城へ戻った。
 この時、豊臣秀頼が出撃しようとしていたので、「死体を乱戦の中にさらずのは大将のすることではありません」と止めて城内に引き返させている。山里曲輪で秀頼と淀殿の助命願いの答えを待ったが受け入れられず、5月8日、息子・出来麿や秀頼親子らと共に自害した。

管理人・・・立場上、調停役をよくしてますね。胃が痛い思いを何度もしたことでしょう。七手組の筆頭だったで武勇に優れていたそうです。槍の名手だってのも聞いた記憶がありますが、渡辺糺とごっちゃになってるだけかもしれません。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大坂の役、ほか

UPDATE 2002年9月1日
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