豊臣秀頼

(とよとみひでより)

生没年:1593〜1615年/ 身分:摂津大坂65万石の大名/ 官位(通称、号):前右大臣

二条城
現在の二条城

【凋落】幼名・拾。当時、拾われた子は健康に育つということが信じられていたためこの名が付けられた。母は浅井長政の長女・淀殿。豊臣秀吉の次男だが、長男の鶴松が病死したため豊臣政権の後継者となった。
 わずか4歳で元服すると左近衛権少将に叙任する。1598年8月、秀吉が没すると天下人となる。だが、2年後の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると200万石から65万石に領地を減らされてしまう。

【逆転】しかも3年後の1603年には徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開くと秀頼の天下人としての立場は完全になくなってしまう。家康は豊臣家をなだめるため秀頼に千姫を嫁がせ右大臣に推薦する。
 1611年3月、家康と二条城で会見をする。家康が秀頼に挨拶に来いと言ったためであった。会見そのものは無事に終わったものの、その成長ぶりと立ち振る舞いの立派さを見て、家康は世間で言われているほどの馬鹿ではないと感じる。

大阪城
豊臣家の牙城・大阪城

【目覚める自我】1614年、冬の陣が始まると淀殿の言い成りだった秀頼が浪人達の影響か少しずつ自分の意見というものを持っていく。冬の陣の際の和議に反対するなど以前の彼には考えられない行動を取るようになった。(結局はまわりに諭されてしまうが)。

【出陣しない総大将】翌年、夏の陣が起こると天王寺・岡山での最終決戦では真田幸村の提案で出撃しようとするが、またも淀殿の反対で結局は出撃できずに、戦に負けてしまう。それを知った秀頼一行は大坂城の一角にある山里曲輪に逃げ込むが、そこにも徳川軍が迫ったため一行は自害して果てる。

豊臣秀頼の首塚
京都市右京区嵯峨の清凉寺にある豊臣秀頼の首塚

管理人・・・なんかただ関ヶ原の戦いから夏の陣までのあらすじをもう一度書いただけになってしまいました。個性はあったとは思いますが、あまりそれが表に出た話が残っていないからでしょうか。でも、大坂の陣での豊臣方の主導権を本当に握っていたのはこの人という説があります。淀殿や大野治長が再戦なんかしたくなかったのに、秀頼が「屈服するくらいなら戦って死んだ方がましだ!」と言い夏の陣を始めたらしいです。本当はどうなんでしょうか。以上、豊臣軍の総大将・豊臣秀頼さんでした。

参考文献大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略戦国人名事典 コンパクト版大坂の役、など。

UPDATE 2002年2月10日
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