千姫

(せんひめ)

生没年:1597〜1666年/ 身分:豊臣秀頼の妻/ 官位(通称、号):なし

【二つの家の絆】徳川秀忠とお江の長女。1598年、秀吉の命により、僅か2歳で豊臣秀頼と婚約している。ちなみに秀頼の母・淀殿と、お江が姉妹になるため、二人は従兄弟になる。1603年に秀頼の元に嫁ぎ大坂城に入る。城内では淀殿らに敵の娘として扱われ、不自由な生活を送る。

【悲劇の姫】1614年に大坂の陣が始まり、実家と嫁ぎ先による戦となる。冬の陣は和議となるが、翌年、再び夏の陣が起こり、豊臣軍は敗北。大坂城内に徳川軍が殺到した。この時、大野治長が、秀頼・淀殿親子の助命嘆願のために解放し、家康の元に送り届けようとする。堀内氏久が護衛をして、彼の知り合いだった徳川軍の坂崎直盛の陣経由で徳川家康の陣所に送り届けられた。
 可愛い孫娘が助かったことで家康は大喜びし、後に護衛をした堀内氏久の命を助けるどころか、領地まで与えるほどだった。さて、家康と面会した千姫は頼まれていた通り、秀頼親子の助命を嘆願した。一応、了解したふりをした家康だったが、ここで豊臣家の血を残しておくわけにもいかず、秀頼親子を自害へと追い込んでいる。

千姫の供養塔
和歌山県伊都郡高野町の高野山奥の院にある千姫の供養塔

【再縁】1616年9月、桑名城主だった本多忠政の息子・忠刻と再婚。千姫が彼に一目惚れしたからと言われているが、本当は忠政の妻・熊姫が家康に頼んで嫁にもらった、と言うのが真相のようだ。この再婚の時に、有名な千姫強奪未遂事件が起きている(その話しは坂崎直盛の欄を参照してください)。
 翌年、本田家が播磨姫路15万石に加増となると、千姫は10万石の化粧料を与えられ、播磨姫君と呼ばれるようになった。姫路城で平穏に暮らし、二人の娘と一人の息子に恵まれた。しかし息子が4歳で夭折し、それから流産を繰り返すようになった。後継ぎが出来ないのは、秀頼の祟りと考えた千姫は、祈祷を祈願するなど、霊を鎮めようとする。しかしその努力も空しく、1626年5月7日に夫の忠刻までが病死してしまう。

【天樹院】6月、未亡人となった千姫は出家して天樹院と号し、11月に娘の勝姫と共に本田家を去り江戸に戻った。そこには弟の3代将軍・家光が待っており、彼女を暖かく迎えたと言われている。それから千姫は江戸の竹田御殿で余生を過ごし、1666年2月6日に亡くなっている。享年70歳。

千姫の墓
京都府京都市東山区林下町400の知恩院にある千姫の墓

管理人・・・千姫と言えば吉田御殿の話が有名です。千姫が御殿から美貌の男を誘い込み、弄んだ後、すべて殺したというもので、錦絵や浪曲にまでなっています。こんな噂が流れたのは、秀頼と死に別れてからすぐに再婚した千姫への庶民の皮肉って説が有力だそうです。
 彼女は心優しい人だったようです。秀頼の子を自分のお腹を痛めたわけじゃないなのに必死で庇い、大姫の方は後々まで面倒を見てあげてますし、秀頼親子の嘆願も頼まれたからではなく、本気でしていたようです。秀頼とはあんまり仲がよくなかった説がありますが、そんなことはなくてなかなか会いに行きづらかっただけじゃないのかなと勝手に想像しています。
 よくドラマなどでは淀殿にいびられまくってますが、これもどうでしょうか。可愛い姪ですから、それなりに大事には扱ったとは思います。ただ家康の血を引くのでちょっと冷たくしたところもあったでしょうけど。
 以上、辛い状況でも純粋な心を持ちつづけた千姫でした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略・歴史と旅 2000年8月号、ほか

UPDATE 2002年1月13日
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