渡辺糺

(わたなべただす)

生没年:?〜1615年/ 身分:豊臣家の家臣/ 官位(通称、号):内蔵助

渡辺糺の墓
京都市右京区嵯峨の清涼寺にある渡辺糺の墓

【主戦派】渡辺昌の息子。母は淀殿の側近・正栄尼。昌は足利義昭の家臣だったが、1573年に足利氏を見限って織田信長・豊臣秀吉の家臣となった人物。糺は槍の名人で豊臣家から1千石を給わっており、関ヶ原の戦い後は重臣達が一斉にいなくなったので、母の権威を背景に権勢を振るった。主戦派に属して、裏切ったと勘違いされた片桐且元を殺そうとし、それが失敗すると彼を大坂城から追い出している。

【目は内蔵助】大坂冬の陣が起こると根来の鉄砲衆300人を指揮した。鴫野の戦いでは上杉軍相手に当初は奮戦したが、逆襲にあうとすぐに退却しその戦い振りを嘲られた。夏の陣では汚名返上のために奮戦し、道明寺の戦いで負傷、翌日の天王寺・岡山での最終決戦でも健闘したが敗北し、大坂落城時に戦死する。
 ただ『続・武家閑談』では、落城寸前まで豊臣秀頼を守っていたが、「何とか命を保ってください。私も生き延び、再起の時に駆け付けます」と言い、近江に落ち延びた。しかし秀頼が自害したのを聞き、立ったまま切腹した、となっている。

管理人・・・大坂城内の主戦派として有名です。冬の陣での不甲斐ない戦さぶりというのは上杉軍の鉄砲の音を聞いただけで怖じ気づいて逃げてしまったことらしいです。その時に作られた狂歌が『渡辺が浮き名を流す鴫野川、敵に逢てや目は内蔵助』。「くらのすけ」と目が眩むをかけた歌です。
 冬の陣で守地について誰がどこを守るかで不満が起き秀頼が抽選で決めようと言い出した時、大野治長が「黒門口は大事な場所だから自分が受け持つ」と言い張ったため、糺は「自分勝手に決めるな!」と怒って斬り合いになりかけました。みんなで止めて何とかなりましたが、それを聞いた後藤基次(又兵衛)は「二人とも斬り合って相打ちになれば良かったのに」と言ったそうです。治長と同じでかなり嫌われていたんでしょう。
 しかし指揮官としての能力は一流だったようで、夏の陣では大活躍しています。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大坂の役大日本史料(第十二編15〜20)・難波戦記

UPDATE 2001年12月10日
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