片桐且元

(かたぎりかつもと)

生没年:1556年〜1615年/ 身分:大和竜田3万石/ 官位(通称、号):東市正

賤ケ岳古戦場の碑
滋賀県伊香郡木之本町にある賤ケ岳古戦場の碑

【浅井の旧臣】幼名・助作。近江の大名・浅井長政の家臣、片桐直政の子。直政が姉川の戦い後、織田側に寝返り、豊臣秀吉に仕えたため、且元も彼の小姓となる。この時に福島正則や加藤清正達と知り合っている。

【目立たない七本槍】1583年の賤ヶ岳の戦いで活躍し『賤ヶ岳七本槍』として名を馳せた。その功績で、3000石の領主となる。その後、小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵に従軍した。また諸国の検地奉行や方広寺の作事奉行としても活躍している。秀吉の晩年に摂津茨木1万2千石を与えられた。そして秀吉の死の直前には豊臣秀頼付の奉公人・側近の監察を命じられている。

【傅役】1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に息子を人質として送り、二心のないことを誓う。そのおかげで戦には参加しなかったにも関わらず、大和竜田3万石に加増となり、豊臣家の家老にまで任ぜられることになった。
 それから徳川家と豊臣家の交渉役となる。家康が豊臣家の財力を削るために、秀吉供養の寺社仏閣の再建などを秀頼に執拗に勧めた際、大野治長などは「これから何が起こるか分からない。金銀はあまり使わないほうがいい」と反対したが、且元はそれらを抑えて事業を進めた。

方広寺の鐘の銘文
京都市東山区にある方広寺の鐘の銘文

【奉行】豊臣家は1609年から方広寺の再建も取りかかる。方広寺は豊臣秀吉が東大寺の大仏をしのぐために、建造が始められたものだったが、地震や火災で崩壊し、放置されてしまっていたのだ。これを前に担当した且元が再び奉行として事業を進めた。

【苦境に立たされる】1614年7月、開眼供養を目前に控えたところで、徳川家から些細なことで待ったがかかる。それが後に方広寺鐘銘事件へと発展してしまい、且元は徳川家への弁明のために、銘の作者・清韓文英と共に駿府の家康の元にむかう。
 8月13日に駿府に着いた且元だったが、家康には会わせてもらえず、側近の本多正純金地院崇伝が応対してきた。そこで且元は「秀頼に誓紙を出させます」と提案したが、正純は「誓紙くらいではすまないだろう」と言って来た。「では、どうすれば」と且元が聞くと「豊臣家が大坂を去られては」と、正純が答えた。それだけは避けたい且元は「大坂へ帰り、君命を聞いてから報告します」と言い、即答を避けた。

茨木城址
片桐且元の居城・茨木城址

【苦悩】このままでは戦になるとみた且元は、自分の考えた策を胸に秘め、9月12日に大坂への帰路につく。途中、近江土山で淀殿の使者として駿府に行っていた大蔵卿局と出会い、家康からの内意と言って自分が考えた案を打ち明けた。
 その内容とは『秀頼が江戸に参勤する』、『淀殿が人質として江戸に行く』、『豊臣家が徳川家の指示する場所に国替えをする』、のどれかを実行するというものだった。これを聞いた大蔵卿局は驚く。と、いうのも彼女が且元と入れ替わりに使者として駿府に行った際は、即座に家康が応対してくれ、しかも「秀頼のことは決して悪くは思っていない。心配しなくていい」と言われていたため、あまりに話しが違ったからだ。

【逆臣?】これは且元が豊臣家を売るために仕組んだことだと勘違いした大蔵卿局は、急いで大坂城へと戻り、淀殿にすべてを報告。すると淀殿は激しく怒り、これを大野治長に相談した。日頃から且元と対立していた治長は「豊臣家を裏切るつもりでしょう」と、進言し、淀殿はそれを真に受けた。
 そうとも知らずに9月20日に大坂へ戻った且元は、会議で上記の三条件を述べた。その場は特に何もなかったが、22日に秀頼・淀殿・大野治長・木村重成渡辺糺らが、会議を開き、且元を裏切り者と断定、彼を亡き者にし、徳川家との開戦を決める。

茨木在城
茨木小学校の中にある片桐氏茨木在城碑

【汚名】それを知った織田信雄は、且元に命を狙われていることを告げる。情報をもらった且元は病と称して屋敷から出なくなり、しかも300の兵で臨戦態勢をとった。この時、且元は「君命によって来る兵だから、鉄砲などで迎え撃ってはいけない。屋敷の壁を越えようとする者だけを槍で退けろ」と命じている。
 ここで、七手組の速水守久が「内乱が起こると、そこを家康につけこまれ戦になる。私が調停しよう」と言い、且元の屋敷を訪れ真意を尋ねた。それに対して且元は「確かに三条件は私が考えたことだ。しかし、それを実行しなければ、必ず戦となってしまうと思ったからだ。ここで恭順の姿勢を見せて時を稼げば、高齢の家康は亡くなり打つ手が出てくるだろう。ここは耐えるべきである」と答えた。
 そこで二心のないことを証明するために人質を送ったが、豊臣家上層部に信用されず、結局は人質を返された後、弟・貞隆と共に摂津茨木へと退去することになる。これを聞いた家康は兵を起こすことを決意した。

【徳川軍として戦う】もはや徳川家につく他なくなった且元は、駿府の家康の元に使者をやっている。それから堺を奪い取った豊臣軍を攻撃するが、兵が少なく敗れてしまっている(堺占領)。
 徳川軍が近畿に来ると、その立場から様々な助言をしている。もっとも大きなものは、秀頼・淀殿の居所を把握していた彼が、それを教え砲撃させたことである。これは淀殿の侍女8人が即死するという大惨事となり、これが和議へのきっかけとなったことは有名である。
 また夏の陣で豊臣軍が壊滅し大坂が落城した時も、秀頼一行が山里曲輪の糒蔵に篭っていることを家康に教えた。その功績で、戦後1万石を加増されているが、大坂落城から20日しか経っていない1615年5月28日に病死している。これには豊臣家を滅亡させてしまった自責の念で切腹した説というもある。

片桐且元夫妻の墓
静岡県静岡市駿河区丸子の誓願寺にある片桐且元夫妻の墓

管理人・・・且元と聞いて一番に思い浮かぶのは、『彼が忠臣かどうか?』という議論です。これは彼が豊臣家の家臣として見るからおかしくなるので、徳川家から領土をもらって豊臣家の家老をやっていた、と考えると行動に納得行く気がします。且元が豊臣家の行く末を案じていたのは、間違いないでしょうが、それと共に多少は保身にも動いていたんでしょう。家を残すことこそ、武士として一番大事なことですから。

 豊臣家に寺社仏閣の再建などを進めたのは、徳川家の意向を読みとってのことという説もありますが、これもどうなんでしょうか? 私はよく分かりませんが。
 亡くなったのは切腹したという話もあるという風に略歴に載せていますが、大坂の陣前から病気で苦しんでいたみたいなので、多分、周りが勝手に噂しただけの話でしょう。
 しかし且元ってそんなにみんなから色々言われるほど、悪いことしてるんでしょうか? 疑問です。嫁と姑の争いに立たされた旦那さんみたいに、どうしようもない立場だったんでしょうね、、、。以上、大坂の陣参戦武将の中で一番気苦労の多かった片桐且元さんでした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略、ほか

UPDATE 2002年1月11日
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