上杉景勝

(うえすぎかげかつ)

生没年:1555〜1623年/ 身分:出羽米沢30万石の大名/ 官位(通称、号):中納言

上杉景勝の鎧
鳥取市覚寺堤下の渡辺美術館にある上杉景勝の鎧

【越後の龍を継ぐ者】父は上田長尾家の当主・長尾政景。母は上杉謙信の姉。父・政景が川遊びの最中に溺死すると、謙信の養子となる。1578年に謙信が死ぬと景勝ともう一人の養子・上杉景虎との間に跡目争いが起こった。有名な御館の乱である。当初は不利だったが武田家を味方につけて何とか勝利した。
 だが上杉家は内乱で領土がほぼ越後一国なってしまった上、絶頂期の織田信長軍が次々と城を落とし、滅亡寸前にまで追いやられる。

【豊臣家家臣として】しかし本能寺の変が起こり、滅亡を免れた景勝は織田家の中で権力を掌握しつつあった羽柴秀吉と手を結び(1586年には上洛し臣下の礼をとっている)、小牧長久手の戦いや小田原征伐などに参加した。
 その後も朝鮮出兵に従軍するなど豊臣政権のために働いている。1597年には豊臣家の最高幹部である五大老に任ぜられ、さらに1598年には東北・関東の押さえとして蒲生家に代わり会津に転封されるなど、豊臣政権の重臣としての地位を固めつつあった。

上杉景勝が城主だった山形県米沢市丸の内にある米沢城(上杉神社)
上杉景勝が城主だった山形県米沢市丸の内にある米沢城(上杉神社)

【脅しなどには絶対に屈しない!】1599年8月に帰国した景勝は、軍事力を増強し始めた。これを知った近隣の大名達は景勝を警戒し、徳川家康に訴え出たのだ。その上、景勝の家臣であった藤田信吉が出奔し徳川秀忠に密告をされてしまう。
 それらの情報に接した五大老達は会津の景勝に弁解のために上洛するように使者を遣わす。しかし景勝は上洛に応じないばかりか、使者に重臣・直江兼続の返書を持たせて追い返した。

【決戦】そのため家康は激怒し1600年6月、征伐軍を起こし大坂城を出発した。7月に江戸に到着し上杉家をいよいよ攻撃しようとした7月24日、征伐軍は上方で石田三成ら(以下、西軍主力)の挙兵を知る。そこで家康の次男・結城秀康らを押さえにおいて上方へと向かう。
 東軍主力はいなくなったが、東北にはまだまだ強敵が残っていた。岩出山城の伊達政宗と山形城の最上義光らである。9月8日、米沢城を出発した上杉軍は次々と最上領の城を落とし、9月15日には敵の本城・山形城を支える長谷堂城に迫った。しかし長谷堂城の抵抗は激しく、いたずらに時が過ぎて行った。

上杉景勝廟
山形県米沢市御廟1-5-30の上杉家廟所にある上杉景勝廟

【苦難の時】同月29日、上杉軍に西軍主力敗北の報が届く。そのため上杉軍は撤退を開始するが、それを今度は逆に最上・伊達連合軍が追撃を始めた。しかしこれらをなんとか振り切り自領へ戻っている。
 その後、家康に謝罪しなんとか改易だけは免れるが、1601年8月に米沢30万石に減封されてしまう。これにより経済的に苦しくなった上杉家であったが産業開発や治水事業などでなんとか苦難を乗り切った。

【武辺者の集まり】1614年の大坂の陣では徳川の一軍として参加する。鴫野の戦いでは佐竹義宣と共に豊臣軍と激戦を繰り広げる。この戦いぶりは「さすがは謙信公の家系」と家康に賞賛されている。夏の陣では京都の治安に備えており、上杉軍は大坂城攻めには直接参加しなかった。1623年3月20日死亡。

上杉謙信・景勝の廟
高野山にある上杉謙信・景勝の廟

管理人・・・とても苦労しています。謙信が考える暇もなしに亡くなってしまったために家督争いとなり、何とか勝利するが争いの隙を突いて織田信長が攻め込んで来て滅亡寸前になっていますし。
 それを乗り越えて120万石の大名になりますが、関ヶ原で負けて30万石のただの大名になっちゃってまた苦労することになりますし。でも経済的に苦しいのに家臣を手放さずに面倒みてあげています。
 景勝と直江兼続って本当に二人で一人って感じですよね。まったくもって二人はいい主君と家臣に出会ったものです。以上、寡黙な二代目・上杉景勝でした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版・上杉景勝のすべて・激闘大坂の陣―最大最後の戦国合戦、ほか

UPDATE 2001年4月1日
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