松下重綱

(まつしたしげつな)

生没年:1579〜1627年/ 身分:常陸小張1万6千石の大名/ 官位(通称、号):石見守

豊臣秀次の像
滋賀県近江八幡市宮内町の近江八幡山城山麓にある主君・豊臣秀次の像

【秀吉の上司の子】松下之綱の長男。之綱は今川家の家臣で1万6千石を領し、のちの豊臣秀吉も仕えたことがある人物で今川家滅亡後は徳川家康や秀吉に仕えた。
 重綱は豊臣秀次に仕え1588年に右兵衛尉となる。1598年から父の跡を継ぎ遠江久野城1万6千石の領主となった。関ヶ原の戦いでは徳川軍につき石田三成の軍と戦い首級50を挙げる。1603年に無断で城の石垣を築いたという罪で常陸小張に移封させられた。

【大坂の陣で奮戦】大坂の陣では本多忠朝に属して戦い、天王寺・岡山での最終決戦では自ら槍を取って戦い奮戦する。その功で1616年に2万8百石に加増され1623年には同じ石高で下野那須郡烏山に移封された。
 1627年に加藤嘉明が会津40万石に移封されるとその娘婿だった重綱も陸奥二本松5万石に移封され嘉明に付けられる。加藤家の移封が終わり落ち着いたその年の10月2日に死亡した。法名・州伝院長厳長洋大居士。二本松の州伝寺に葬られた。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2004年2月25日
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