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1600年に上杉征伐の最中に、上方で石田三成らが挙兵すると、徳川軍の本隊を家康から任せられている。この挙兵を聞いたとき、秀忠は『憂悶の御思念、深く』という風で、他の兄弟達が乗る気であったにも関わらず覇気がなかったという。家康は上方へと向かうため、秀康を抑えとして置き、秀忠には9月1日に37000の軍を預け中山道を進めさせ、家康自身は東海道で西を目指した。秀忠軍は家康軍と美濃で合流する予定だったが、途中で信濃上田城の真田昌幸の策略に乗せられ攻め込むが落とせず、9月10日にやっと抑えの兵を置いて美濃を目指すことが出来る。しかし悪天候にも阻まれ9月15日の関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
【傀儡将軍】9月20日、ようやく近江草津で主力軍と合流したが、家康は激怒しており、3日間も対面を許さなかった。取り合えず家康は今回の件を許しはしたが、秀忠が跡を継ぐことに疑問を持ち、重臣達を集め、誰が自分の跡を継ぐべきかを尋ねる。ほとんどの者が、次男の秀康か四男の忠吉をあげたが、ただ一人、大久保忠隣だけが「乱世ならその勇猛な御二人が相応しいかもしれませんが、平時なら仁孝恭謙(思いやりがあって慎み深いこと)の秀忠様だと思います」と、彼を推挙した。これのおかげかどうか分からないが、後日家康は後継ぎを秀忠にすることを皆に宣言した。
大坂の冬の陣が始まっても秀忠にはあまり活躍の場はなく、仕切るのはすべて家康だった。秀忠は総攻撃を願い出るが、これも一蹴されてしまう。翌年に起きた夏の陣では豊臣軍が両将軍の首を狙い、猛攻撃を仕掛けてきたため、秀忠軍も危ない目にあっている(天王寺・岡山での最終決戦)。この時、秀忠軍は大野治房隊などの攻撃で大混乱をきたし、秀忠自身も槍を戦おうとしたが、これは家臣に止められた。その後、秀忠軍はなんとか大野隊を退け大坂城を落城させている。 【手腕】ここまではあまりパッとしない秀忠であったが、1615年に家康が亡くなり、名実ともに日本の頂点に立つとその手腕を発揮した。外様大名の改易(秀忠時代が一番多い)、朝廷や寺社の締め付け、海外貿易の制限などを行い、徳川幕府の基礎を固める。家康の後継者選びはやはり間違ってはいなかったのである。1632年1月24日死亡。
私には石橋を叩いて渡る慎重で保守的なイメージがあります。秀忠がいたからこそ徳川幕府はあんなに続いたんだと思います。秀康とかだったらどうなってたんでしょうか。以上、その政治力で江戸幕府の基盤を築いた徳川秀忠さんでした。 参考文献:戦国人名事典 コンパクト版・大坂の陣名将列伝・徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜、ほか UPDATE 2001年8月9日 Copyright (C) 2001 Tikugogawa. |
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