道明寺の戦い

(どうみょうじのたたかい)

徳川軍水野勝成伊達政宗松平忠明軍など(34000)
豊臣軍後藤基次薄田兼相真田幸村隊など(18700)
戦  場:河内国道明寺村周辺

【又兵衛の読み】「堀を埋められては城で迎え撃つのは不可能だ。敵は大和路から大坂城南を目指してくるだろうから、亀瀬・関屋の隘路を抜けてきた徳川軍を国分辺りで叩く。山地の狭いそこを利用すれば十中の内、七・八は勝つだろう。先頭を破れば、後ろの隊は郡山に退くはず。その後のことはまたそこで考えれば良い」。軍議の席で後藤基次はそう主張した。
 1615年4月30日、徳川軍の襲来間近の大坂城では豊臣家上層部と浪人の間でどうやって対処するかが話し合われていた。真田幸村は大坂城南の四天王寺辺りで終結した徳川軍を迎え撃つことを主張したが、基次は交通の要所で山に囲まれ道が狭い国分周辺に陣を敷き、大軍の力が発揮できないようにするのが一番だと譲らない。結局は冬の陣で基次から真田丸の陣地を譲ってもらった幸村が合わせることにし、国分方面への出撃が決まった。

小松山と大和川
小松山と大和川

【出撃】5月1日、第一陣の後藤基次・薄田兼相・井上時利山川賢信北川宣勝・山本公雄・槇島重利明石全登隊、約6400が出発。平野(ひらの)を目指した。続いて第二陣の真田幸村・毛利勝永・福島正守・渡辺糺小倉行春(作左衛門)大谷吉治細川興秋・宮田時定隊、約12000が出発。天王寺を目指した。5月5日、幸村と勝永の二人は基次の陣を訪れ「道明寺で合流し夜明け前に国分を越え狭い場所で徳川軍を迎え撃ち、3人が死ぬか両将軍の首を取るかどちらかになるまで戦おう」と誓い、訣別の盃を酌み交わして別れた。

小松山
柏原市玉手町25にある小松山

【徳川軍の動き】一方、水野勝成を総大将とする徳川軍の大和路方面軍先発隊(堀直寄・松倉重政・別所孫次郎・奥田忠次・丹羽氏信・中山照守・村瀬重治軍)、約3800は5月5日の午後4時には国分について宿営した。この時、国分の先の小松山に陣を置くのが良いと諸将は主張したが、勝成が「小松山を陣地にすれば敵襲を支えることは難しい。それよりもこのまま国分に陣を敷き、もし敵が小松山を取ったのなら、回り込んで挟み撃ちにしよう」と言い、陣を置かなかった。
 夜になると、伊達政宗軍10000、本多忠政軍ら5000、松平忠明軍3800が到着。政宗は家臣の片倉重長に命じて小松山の山下に一隊を伏せさせた。また兵に夜通し警戒させている。この頃、この方面の後列である松平忠輝軍12000はまだ奈良にいた。

奥田忠次の墓
小松山にある奥田忠次の墓

【小松山】5月6日午前0時、後藤隊2800は平野を出発。夜明け頃には藤井寺についた。そこで真田隊などを待つがまったく来る気配が無い。実は真田隊らは濃霧のために時刻を誤った上に、寄せ集めの浪人が大半で行軍に慣れていなかった為、大幅に到着が遅れていたのだ。戦機を逸すると感じた基次は待つのを止め出発。誉田経由で道明寺に出た。基次はそこで初めて、すでに徳川軍が国分まで進出していることに気づく。そこで後藤隊は石川を渡ると、小松山を占領。午前4時頃、片山村方面から攻撃を開始した。
 一方の徳川軍も午前2時頃、藤井寺方面の後藤隊を発見。未明に奥田忠次軍は小松山に登ろうとしたところに、後藤隊と衝突。銃撃戦の後に槍での戦いとなる。ここで忠次は戦死。後藤隊は続いて北から攻撃してきた松倉重政軍と衝突。松倉隊は後藤隊の平尾久左衛門ら200を討ち取る奮戦をしたが、逆に松倉軍も力尽き全滅しかけた。だが、水野勝成・堀直寄が援軍として駆けつけた為、なんとかそれは免れた。後藤隊が山を下り銃撃を開始すると、伊達軍は伏せていた片倉重長隊を起き上がらせ、銃撃戦となった。午前9時頃、伊達政宗本隊も小松山に登り攻撃を始める。松平忠明隊も東からの攻撃を開始し山を登り始めた。

道明寺の戦い(前半戦)・合戦図
道明寺の戦い(前半戦)・合戦図

【死にたくないものは去れ】その徳川軍の猛攻撃で後藤隊の先鋒は壊滅。後藤隊は数度に渡り徳川軍を撃退し、70〜80人を倒したが、三方向から迫る10倍近い敵を相手にいつまでも戦えるものではない。もはや勝ち目がないことを悟った基次は「死にたくない者は今から去れ」と言ったが、基次を慕う兵達はほとんどがその場に残った。
 後藤隊は最後の戦いをしようと西に下って平地に出ると隊を二つに分け、徳川軍に突撃を開始した。決死の覚悟の後藤隊は敵の1〜2隊は打ち破ったものの、丹羽氏信軍に側面を攻撃され乱れた。分断された後藤隊先鋒は隊伍を整えようとするが、伊達軍の数千もの鉄砲隊の射撃で壊滅してしまう。
 基次自身も兵を収めようと先頭に立ったとき、伊達軍の鉄砲隊に胸を撃たれた。近くにいた金方某は彼を連れて去ろうとしたが重くて動かない。死を覚悟してこの戦いに挑んだ基次は逃げようという気はなく「首を刎ねろ」と命ずる。金方は仕方なく基次の首を刎ねると陣羽織に包んで土に埋めた(吉村武右衛門という説もある)。正午、徳川軍は壊滅した後藤隊が道明寺方面に退却するとそれを追って川を越え追撃を開始する。

後藤又兵衛の碑
柏原市玉手町7の玉手山にある又兵衛の碑

【第二軍到着】薄田兼相・井上時利・山川賢信・北川宣勝・山本公雄・槙島重利・明石全登隊の豊臣軍の第二軍が道明寺に到着し後藤隊の敗残兵を収容した。それと同時に追撃してきた徳川軍と激突。薄田兼相は誉田で水野勝成軍と戦い奮戦するが、討ち死に。井上時利も徳川軍の秋山右近を倒したが、討ち死にした。その他の諸隊は不利を悟り、道明寺から誉田の森まで撤退した。

小松山古戦場碑
大阪府柏原市玉手町25−80にある小松山古戦場碑

管理人・・・後藤隊の奮戦はすごい、の一言ですが、なんで他の豊臣軍の人達、あんなに遅れちゃったんでしょうか? 真田隊らは仕方ないしても(幸村が遅れたのは次の日の天王寺・岡山での最終決戦のために戦力を温存したかったという話しもあるけど、そんなこと幸村がするとは思えません)、明石隊らはなぜなんだろう。同じ平野で宿営していたはずなのに。後藤隊が死を覚悟していたので勝手に出発したっていうのもなんか腑に落ちないし。連絡が上手く行ってなかったのでしょうか?
 本当に全軍が集まっていれば、小松山に後藤隊、西側の石川に他の隊が後詰でいて結構善戦できたと思います。まあ八尾・若江で敗北するから勝っても同じ結果でしょうけど。でも、そうなったら又兵衛が生き残るので大きいかも。話は後半戦に続きます。

【第三軍到着】後藤基次隊が壊滅し、薄田兼相・井上時利が討死した午前10時頃、やっと第三軍の毛利勝永隊が藤井寺村に到着。単独での戦闘は各個撃破になるだけだと判断した勝永は、真田隊の到着を待つ。午前11時、続いて真田隊が到着。真田隊は渡辺糺隊と合流すると、毛利隊の右をすり抜け、苦戦している第二軍の北川宣勝隊の救出に向かった。幸村は北川隊を救出すると徳川軍の追撃に備え隊伍を整え敵を待った。

【騎馬鉄砲隊】これを見た伊達隊の先鋒・片倉重長が、どの隊に向かうべきかと家臣に聞くと、その中の一人・丹野某が「真田隊の中に伊達家から大坂に入城したものがいますので、そちらを討たせて下さい」と頼み出た。それを許可した重長は伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を真田隊にぶつけることを決める。
 重綱は騎馬と歩兵の混合部隊を二つに分け突撃させ(この中に騎馬鉄砲隊が含まれている)、鉄砲隊を左右に展開し射撃させた。そこで幸村は正面から突撃してくる部隊には、兵を折り敷かせ敵が接近してから一斉に攻撃させ、左右の鉄砲隊にはこちらも鉄砲隊で対抗した。
 そのうち両軍入り乱れての戦いとなり、幸村の息子・真田幸昌や渡辺糺が負傷するなど激戦となったが、結局、重長が兵を退いた。それを見た真田隊は追撃をかけたが他の伊達軍の部隊が援護に来たため、真田隊も西に兵を退いている。

現在の石川
現在の石川。ここを渡って徳川軍が進撃してきた

【男はいないのか!】ここで豊臣軍に八尾若江の戦いで味方が敗北したので、急ぎ城へ戻るようにという伝令が来る。それが午後2時ごろである。諸将は話し合いに末、撤退を決め、午後4時頃、大坂城へ退却し始めた。これを見た徳川軍は追撃するかどうかを話し合った。水野勝成・松平忠輝・一柳直盛・本多忠政などは追撃を主張したが、伊達政宗は「我が隊は朝からの戦闘で疲れている。追撃は不可能だ」と断固として追撃を拒否。そのため追撃の話しは結局流れてしまった。
 豊臣軍は追撃に備え毛利隊の一部を残し、付近の民家を放火して撤退していった。この時、八尾・若江の戦いで大坂城近くまで豊臣軍が出張ってきていたため、本道が使えず支道を使って大坂城まで帰っていったいう。この戦いでの徳川軍の死者は180名で負傷者は230名だった。一方の豊臣軍は死者210名であったが、勇将を多数失った豊臣軍は、徳川軍とは比べ物にならないほどの大打撃を受けた。

道明寺の戦い(後半戦)・合戦図
道明寺の戦い(後半戦)・合戦図

管理人・・・なんで政宗が追撃やめただけでみんな追撃をやめているんでしょうか。もう苦労しても報酬はたかがしれてるからやる気がなかったのでしょうか・・・。伊達軍は朝から昼まで戦っているからそりゃあバテバテなのは分かりますが。そこで追撃していれば翌日にあんなに苦戦することもなかったかもしれません。
 ちなみに真田・毛利隊が支道を使って帰ったと書いていますが、これはどうも八尾・若江方面で戦った藤堂家の宣伝のようです。何しろ彼らが退路を絶ったとはいえ、その兵は渡辺了の300だけで後は疲労困憊。これでは幸村達の進撃を阻止するのは難しいと思います。以上、又兵衛&隼人さん大奮戦と幸村さん大活躍の道明寺の戦いでした。

誉田林古戦場碑
羽曳野市誉田3−2−8の誉田八幡宮にある誉田林古戦場碑

UPDATE 2001年6月21日
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