毛利勝永

(もうりかつなが)

生没年:?〜1615年/ 身分:大坂城五人衆/ 官位(通称、号):豊前守

山内神社
勝永の兜が納められている高知市鷹匠町2-4-6にある山内神社

【譜代の家臣】毛利家は豊臣家には珍しい譜代の家臣であった。勝永の父、毛利勝信(吉成)は最初、織田信長に仕えていたが、のちに豊臣秀吉に仕え、秀吉の出世と共に、勝信の身分も上がり、1587年には豊前小倉で14万石を賜っている。
 この時、勝永も豊前国内で4万石をもらっている。この時、秀吉は元々森だった姓を出自の卑しさを隠してやるために中国の毛利家に頼んで毛利姓を分け与えた。

【流転】その流れで当然、関ヶ原の戦いでも親子揃って西軍につき、勝永は伏見城攻めで戦功をあげる。しかし西軍の主力が敗北したため毛利氏は所領を没収され加藤清正に預けられる。だが翌年には親友だった山内一豊が彼らの身元引き受けを願い出たため山内家の所領である土佐に送られる。罪人とは言っても元の友人とその息子である毛利親子はかなり寛大な扱いを受けた。

【転機】1614年のある日、勝永の元に旧領の小倉の商人と名乗る男が訪ねてくる(父の勝信は1611年に亡くなっていた)。しかし、その正体は豊臣家の家臣・家里伊賀守であった。彼は秀頼の「大坂に入城して力を貸せ」と言う言葉を伝える。親子二代で豊臣家に大恩ある勝永が断わるわけがなく喜んでその話を受け、海を渡って大坂城に入った。冬の陣では二ノ丸西方の西ノ丸西と今橋を受け持っていたが、勝永は大した活躍もできずに和平を迎えている。

勝永の屋敷跡
土佐に蟄居中だった勝永の屋敷跡(高知市中久万)

【道明寺へ】1615年5月の夏の陣では、真田幸村後藤基次らと共に、大和路の別働隊を叩くために出撃した。ここで勝永と幸村は霧の為に約束の場所の国分への到着が遅れてしまい、単独で戦闘に挑んだ後藤基次隊の壊滅の原因を作ってしまう(道明寺の戦い)。
 幸村はこの時、自分を責め、「このまま自分も後藤隊のように突撃する」と勝永に言うが、逆に「遅参は貴殿のせいではない。どうせ死ぬなら、明日、秀頼様の前で戦って討ち死にしましょう」と励ましている。

【家康の首を求めて】この戦いの翌日、勝永はまたも真田幸村と共に茶臼山に布陣する。ここで秀頼の出撃を待ち出馬と同時に攻撃を開始する予定であったが、秀頼の出馬取り止めと敵の進撃スピードが早かったため乱戦に巻き込まれる(天王寺・岡山での最終決戦)。
 毛利隊はまず本多忠朝隊と戦うが、死を覚悟した毛利隊は疾風の如き活躍で敵の大将・忠朝を討ち取った。本多隊を破った毛利隊は、次から次へと徳川軍を撃破して家康の本陣に突入するが家康本人は真田隊に追いたてられ逃げた後で、もぬけの殻であった。勝永達はそこで家康の姿を捜すが見つける前に徳川軍の新手が現れ結局は撤退する他なくなってしまう。そこでも勝永は見事に大坂城に撤退すると、山里曲輪で秀頼の首を介錯した後に自害した。

管理人・・・私はこういう実力はあるけど地味な武将って好きです。もっと調べたいですが資料がないんで困ってます。
 もし真田幸村がいなかったら、彼が家康の首を取っていた、、、ことはなくても活躍して幸村並みの名声を得ていたでしょう それはオーバーでも、もっと知名度が上がってたかもしれません。
 ちなみに当時は『毛利』と書いて『もり』と読んでいたようなので、字だけが変わって読み方は同じだったみたいです。以上、豊臣家のために尽した毛利勝永でした。

参考文献真田戦記大日本史料(第十二編15〜20)大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略・大阪城の七将星

UPDATE 2002年3月12日
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