≫
人物一覧≫
【人物の紹介】→
次の武将
|
1582年に阿閉氏を去り、豊臣秀吉に仕え、糠山城攻めで功があり、羽柴秀勝の家臣となり2千石を与えられた。そして四国征伐などで戦功を立てたが、秀勝が亡くなったため、中村一氏の家臣となり3千石を与えられる。1590年の小田原征伐では伊豆山中城で一番乗りをしたが、一氏が秀吉に了の戦功を報告しなかったため怒って中村氏を去り、高野山に登った。その後、増田長盛に招かれ客将となった。
大坂の陣が起こると左先鋒となったが、高虎と意見が対立したためその任を解かれた。夏の陣では息子の守に属して従軍したが、またも八尾の戦いで目の前に現れた長宗我部盛親と戦うべきかそのまま進むべきかと迷う高虎と意見が対立し、本戦で苦戦する味方を無視して持ち場から動かなかった。その後、長宗我部隊が撤退する際に久宝寺で追撃戦をし損害を与えたにも関わらず、評価されなかったため藤堂家を去る。
1630年に高虎が亡くなると、江戸に移り住み奉公構いの撤回を幕府に願い出た。しかしこれは藤堂家に拒絶され撤回されなかった。そのため了は再び近江に戻って各地の大名からの捨扶持をもらいながら余生を過ごす。1640年7月24日死亡。 管理人・・・藤堂家の家臣の中では一番名が知られているんじゃあないのでしょうか。武功だけで2万石までいったとはかなりの人だったんでしょう。八尾の戦いでの重要人物の一人で、長宗我部隊が崩れたのを見て取ってから攻撃をしかけ5月6日の時点で藤堂軍を徳川軍の中でもっとも前に進めています。以上、その才能をいろんな大名に愛された渡辺了さんでした。 参考文献:藤堂高虎家臣辞典・大坂の役・戦国人名事典 コンパクト版、ほか UPDATE 2002年11月8日Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
≫
人物一覧≫
【人物の紹介】→
次の武将
|