片倉重長

(かたくらしげなが)

生没年:1585〜1660年/ 身分:伊達家の家臣/ 官位(通称、号):小十郎

片倉景綱を称える碑
宮城県白石市益岡町1にある父・景綱を称える碑と白石城

【政宗の片腕の息子】伊達政宗の片腕・片倉景綱の長男。最初、重綱と名乗る。関ヶ原の戦いで上杉軍の篭る白石城攻防戦に父と共に従軍した。大坂の陣に従軍し、冬の陣では伊達政宗から馬印を賜り軍を激励する。夏の陣では道明寺の戦いで千人程を率いて後藤基次薄田兼相の軍を破るという大戦果をあげた。

【鬼の小十郎】この戦いで重長の隊は首級91を得て、世間は重長を『鬼の小十郎』と呼んだ。これにより徳川家康から感状を賜っている。しかし敵と直接戦闘して首を獲ったということが父にばれて「敵と組み討つなど大将のすることではない」と叱られている。
 その後重長は政宗と二代藩主・忠宗に重用され1660年3月25日死亡した。法名・一法元理真性院。宮城県白石市南町2ー7−20の傑山寺に葬られる。

片倉重長の墓
宮城県白石市福岡蔵本の片倉家歴代廟所にある重長の墓

管理人・・・人気のある伊達家の中でも、特に人気者なので皆さん知っていることばかりだとは思います。特に有名なのは重長の奥さんが真田幸村の娘さんってことですね。敵の大将格の娘と結婚するとは、主人が主人なら(政宗は他にも戦犯の一族を養ってます)家臣も家臣ですね。
 また有名な逸話なのは重長が美男子で上洛した際、小早川秀秋に追っかけ回されて大変だったというものです。よほどの美男子だったのでしょう。

参考文献:伊達政宗―独眼竜の野望と咆哮・伊達政宗のすべて・戦国人名事典 コンパクト版三百藩家臣人名事典・仙台人名大事典

UPDATE 2003年6月24日
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