松平忠明

(まつだいらただあきら)

生没年:1583〜1644年/ 身分:伊勢亀山5万石の大名/ 官位(通称、号):下総守

伊勢亀山城
忠明が城主だった三重県亀山市本丸町にある伊勢亀山城

【奥平家】奥平信昌の四男。信昌は三河の豪族。長篠の戦いで長篠城を死守し、その功で徳川家康の娘・亀姫と結婚した人物。三河新城で生まれる。1588年に家康の養子となり、松平姓を与えられた。1592年に上野長根7千石を与えられる。1599年に徳川秀忠の諱をもらい、忠明と名乗った。同年に下総守に任ぜられる。関ヶ原の戦いに従軍し、1602年に三河作手1万7千石の大名となった。1610年に伊勢亀山10万石に移封される。
 大坂冬の陣が起こると、西美濃の武将を率いて河内枚方に、家康本陣の備えとして布陣した。和議成立後に大坂城の堀の埋め立てで奉行を務める。夏の陣にも出陣し、5月7日の道明寺の戦いで奮戦し、翌日の天王寺・岡山での最終決戦でも首級73を獲た。陣後の論功行賞で第一とされ、摂津大坂10万石に移封される。

【大坂の再興を行う】大坂に入った忠明は陣で荒廃した大坂城と城下町の復興と発展に力を注いだ。三の丸に新たな街を作り、天満・船場に人々を移したが、それでも人が足らなかったため伏見城下から移住させている。1619年に大和郡山12万石に移封された。郡山では城門を伏見城から移すなど修築を行っている。1639年に播磨姫路18万石に移封された。1644年3月25日死亡。和歌山県伊都郡高野町の高野山中性院に葬られる。

大和郡山松平家墓所
高野山奥の院にある大和郡山松平家墓所

管理人・・・徳川嫌いで有名な大阪ですが、忠明に関しては家康の孫にも関わらず街を復興させた英雄の一人として扱っている本があるほどの人物です。忠明の力によって現在の大阪市の基礎が築かれています。
 大和郡山の時代に松平家の家臣が水谷神社の神事能に出かけた際に、南都奉行所との間に、双方合わせて2千人以上が関わるという大きな争いが起きています。しかし興福寺の調停で何とか収まっています。
 以上、その手腕を買われて大坂の復興を任された松平忠明さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜、ほか

UPDATE 2006年5月9日
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