水野勝成

(みずのかつなり)

生没年:1564〜1651年/ 身分:三河刈谷3万石の大名/ 官位(通称、号):日向守

刈谷城
勝成が城主だった愛知県刈谷市城町にある刈谷城

【徳川の譜代】三河刈谷城主・水野忠重の嫡男。徳川家康の従兄弟にあたり秀忠とは乳兄弟になる。家康に仕え1579年の遠江高天神城攻めで初陣を飾った。1581年の高天神城攻めにも父と共に活躍し織田信長より感状と左文字の刀を与えられる。1582年に徳川軍が甲斐で北条軍と戦った際にも功があった。1584年の小牧・長久手の戦いでは一番首を獲る。

【浪人となる】そのように戦功を重ねた勝成だったが、同年に父が伊勢桑名の守備についていた時に、遊女代で水野家の勘定方と揉めて斬り殺してしまう(父に讒言した家臣を殺したとも言われている)。困った勝成は家康に仲介を頼むが忠重がどうしても許さず「しばらく目立たないようにしておけ」との家康の命令で浪人となった。
 1587年に九州征伐が起こると九州に行き佐々成政に仕える。同年に彼が肥後国主となった際に起きた肥後一揆では鎮圧に向かい首級を獲た。1588年に成政が改易され、小西行長が肥後宇土城主となると行長に仕える。その後、加藤清正、黒田長政に仕えるが長続きせず備中に行き三村家の世話になった。

福山城
勝成が城主だった広島県福山市丸之内にある福山城

【古巣に戻る】1598年の豊臣秀吉が亡くなった後に京都に行き、家康に帰参を願い出て許される。1600年の関ヶ原の戦いの直前に加賀井重望によって父の忠重を斬られると、その遺領を継いで三河刈谷3万石の大名となった(この際に帰参を許されたとの説もある)。関ヶ原の戦いでは大垣城の開城をさせる。

【大坂の陣で活躍】大坂冬の陣に従軍した。夏の陣では大和口の先鋒を務め、5月6日の道明寺の戦い 前半戦で活躍した。また翌日の天王寺・岡山での最終決戦でも明石全登隊と激戦を繰り広げ、桜門に入り一番に旗を立てる。陣後、松平忠明に継ぐ功があったということで、大和郡山6万石に移封された。
 1619年に備後10万石に移封される。これは西国の押さえとしての意味があったと言われている。備後に来た勝成は3年の歳月をかけて福山城を築城し城下町を整備する。1637年の島原の乱にもおもむき原城攻めに参加した。1639年に隠居して宗休と号する。1651年3月15日死亡。福山市の賢忠寺に葬られた。

水野勝成の墓
広島県福山市若松町にある勝成の墓

管理人・・・とにかく暴れん坊のイメージがあります。1585〜1600年にかけては浪人して主君を何人も変えています。
 小牧・長久手の戦いの時ですが、目を患って兜を被らずに出陣したところ、忠重に「このような時に兜を被らずにいつ使うのだ」と注意され、「このように辱められた上は頭を被るか一番首を取るか、今日の勝負に賭ける」と単騎で突っ込み一番首を獲ています。無茶苦茶ですが、当時の戦国の人はこんなものだったんでしょう。
 そんな勇猛な勝成ですが、福山では福山城を築く際に海を埋めて城下町を造り、新田開発を行い、反乱が頻繁にあった芦田川の治水を行い、寺社仏閣の再建などにつくしたそうです。以上、福山市の基礎を築いた水野勝成でした。

参考文献:三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2005年6月3日
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