水野忠清

(みずのただきよ)

生没年:1582〜1647年/ 身分:上野小幡1万石の大名/ 官位(通称、号):隼人正

水野忠清の墓
東京都文京区小石川3−7−4の真珠院にある忠清の墓

 三河刈谷城主・水野忠重の四男。水野勝成の弟。関ヶ原の戦いでは徳川家康に従って出陣した。1602年に隼人正に任ぜられる。その後、徳川秀忠に付けられ、書院番頭と奏者番を兼ね、上野甘楽郡小幡1万石の大名となった。
 大坂冬の陣に従軍する。大坂夏の陣にも従軍し旗本の先陣を務め阿倍野に布陣し、首一つを獲る功があるが、青山忠俊と功について口論となり、二人とも閉居させられた。1616年4月3日、家康が体調を崩した際、忠清の罪を許し前に出るように命があったが断る。しかし家康の側にいた土井利勝本多正純秋元泰朝らが忠清の先祖と本人の功について口添えしてくれたため、閉居を解かれ三河刈谷2万石に移封された。この時に忠清は涙を流して感謝したという。
 1626年に後水尾天皇が二条城に行幸した際に公家衆の饗応役を務める。1632年に三河吉田4万に移封された。1634年に徳川家光の上洛の際に東海道筋の大名は負担が多いという理由で5千石を加増される。1641年に吉田大橋の架け替えを行った。1642年に信濃松本7万石に移封される。1647年5月28日死亡。法名・郭誉全忠真子珠院。江戸小石川の伝通院に葬られた。

管理人・・・主君としてはかなり厳しい人だったそうです。

参考文献:三百藩藩主人名事典寛政重修諸家譜

UPDATE 2011年9月19日
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