真田幸昌

(さなだゆきまさ)

生没年:1602〜1615年/ 身分:真田隊の部隊長/ 官位(通称、号):大助

真田幸村・大助親子の供養碑
長野市松代町松代1015-1の長国寺にある真田幸村・大助親子の供養碑

【名将の孫】信州上田城主・真田昌幸の孫で、真田幸村の長男。母は大谷吉継の娘。名前は他にも信昌、幸綱など。関ヶ原の戦いに敗れ、紀伊九度山に蟄居した真田家に生まれ、そこで育つ。
 1614年10月9日、父・幸村と共に豊臣家の招きに応じて九度山を脱出し大坂城へ入城する。冬の陣では父と真田丸に篭り、敵が浮き足立ったところで出撃し、徳川軍に打撃を与えるという初陣ながら立派な活躍をしている(真田丸の攻防)。

【奮戦】1615年5月6日、真田隊の一員として大和路方面に出撃。ここで伊達政宗軍の片倉重長隊と激突し敵と組み合い高股に負傷したものの首を取った(道明寺の戦い)。
 翌日7日も当然幸村と共に茶臼山に布陣。ここで本当は総大将・豊臣秀頼が出撃することになっていたのだが、淀殿の反対もあってなかなか出撃しない。そこで幸村は幸昌を秀頼への使者と人質を兼ねて、大坂城へ戻るように言う。幸昌は一緒に戦いたいと泣きながら訴えるが、それは許されず結局大坂城へと戻ることになる。大坂城に入ると、秀頼に出馬を乞うが、聞き入れられなかった。

【秀頼と共に】その頃、台所の人間の一人・佐々孫介の裏切りによって城から火が上がる。本丸は危険だと幸昌は秀頼一行と共に山里曲輪に非難した。ここで幸昌は速水守久に脱出を勧められるがそれを拒否し、毛利勝永大野治長らと共に自害する。享年14歳。

参考文献真田戦記大坂の役

UPDATE 2001年3月25日
Copyright (C) 2001 Tikugonokami.