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1600年の関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、信濃上田城攻めに参加する。1601年にその功で上野那波郡で1万石を与えられた。その後、秀忠の上洛に従うなど徳川家のために尽くし、1609年に5千石を加増される。大坂の陣に従軍し、天王寺・岡山での最終決戦で大野治房軍に対して苦戦させられている。
しかし家光が上京中に江戸で火事が起きた時に責任を感じて寛永寺に篭ったが、その行動が徳川家光から「城を捨てて逃げるとは」と怒りを買い出仕を止められてしまう。その後、許されて老中に戻ったものの、それまでの勢いはなく、失意のまま1638年3月13日に死亡した。群馬県前橋市の竜海院に葬られた。
管理人・・・老中となった忠世でしたが、知恵者の利勝にはかなわず徐々に中枢から遠ざけられていったそうです。ただ領地の厩橋では新田開発、治安の維持、商業の発展などに力を尽くし有能な領主として活躍しています。 参考文献:三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版・徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜・江戸幕閣人物100話 UPDATE 2004年6月15日 Copyright (C) 2004 Tikugogawa. |
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