小笠原秀政

(おがさわらひでまさ)

生没年:1569〜1615年/ 身分:信濃松本8万石の大名/ 官位(通称、号):兵部大輔

【流転の日々】小笠原貞慶の息子。母は日野晴光の娘。小笠原家は清和源氏の後裔で信濃の名族だったが、1553年に武田信玄によって信濃を追われている。秀政は貞慶の逃亡先の山城で生まれ、父と共に各地を転々とした。貞慶は1582年6月の本能寺の変後、徳川家康の助けを得て信濃深志城を奪い、徳川家に秀政を人質に出し石川数正に預けた。
 その後、貞慶は数正と共に豊臣秀吉の下に走り、讃岐半国を与えられたが、秀吉の怒りを買ったため改易され、家康の下に戻った。1589年に徳川信康の娘・登久姫と結婚する。

松本城
秀政が城主だった松本城

【徳川家の家臣】1590年の小田原征伐では秀政は<榊原康政隊に属して従軍し、その功で下総古河3万石を与えられた。その後、秀政は朝鮮出兵・会津征伐に従軍し、その功で1601年に信濃飯田5万石に移封され信濃守を名乗る。
 1607年に妻が亡くなると剃髪して家督を長男の忠脩に譲った。1613年5月、石川康長が改易されるとその後に入り信濃松本の旧領に戻った。

【冬の陣】1614年、大坂冬の陣が起こると忠脩を大坂に向かわせ自身は松本城の守備につく。翌年の夏の陣では秀政が3300の兵を率いて出陣し、息子達は松本城の守備を命じられたが、忠脩と次男・小笠原忠真は密かに大坂に向かい父と合流した。これを知った家康はその忠勇を誉めている。

毛利隊と徳川軍前線が戦った辺り
毛利隊と徳川軍前線が戦った辺り

【屈辱】1615年5月6日、若江の戦い井伊直孝軍が木村重成軍と戦闘となり、小笠原軍も木村宗明に攻撃され、秀政は本格的な戦闘に入ろうとしたが、軍監・藤田信吉に止められたため防戦に徹した。それが家康の耳に入り、秀政は激しく叱責されてしまう。冬の陣でも小笠原軍は沼地のために進撃できないという失態を演じたということもあり、秀政は名誉挽回を決意し、同じ境遇に置かれていた本多忠朝を訪ね酒を酌み交わして翌日の奮闘を誓い合った。

【奮戦】翌日、大坂城南で天王寺・岡山での最終決戦が始まると、毛利勝永大野治長竹田永翁軍と衝突し竹田軍を蹴散らしたが、毛利・大野軍の攻撃によって小笠原軍は敗走し始める。
 秀政は体勢を立て直そうと自ら槍を奮って奮戦するが6ヶ所に傷を負い、忠脩が討死、忠真も傷を受け、指揮官すべてがいなくなってしまい小笠原軍は撤退してしまう。秀政は河内久宝寺に逃れ治療を受けたが、夕方に死亡した。享年47歳。遺体は京都で荼毘(だび)にふされ、松本に運ばれて葬儀が行われた後、宗玄寺に葬られた(後、改葬されて現在は広沢寺に墓がある)。

小笠原秀政・忠脩の墓
長野県松本市里山辺5112の広沢寺にある小笠原秀政・忠脩の墓

管理人・・・かなりの苦労人ですが、その苦労のおかげで立派な人間になって、信康の娘を妻にもらえるという家康の絶大な信頼を得ています。また彼が任された下総古河の地は要所でこれでも家康の信頼があったことをうかがわせます。

 大坂の陣の時は「豊臣軍に勝利したら大坂城と20万石を賜るんだ」と張り切っていたようですが、軍監のせいで窮地に追いやられています。そのため領土のことがよっぽど心配だったようで、家康が見舞いに来た際に「信濃は・・・」と言って亡くなったそうです。移封になったとはいえ、領土は守られたわけだから成仏されていることでしょう。
 と思っていたら「信濃は・・・」は『信濃守(息子・忠脩の官位)』のことを心配した言葉のようです(『小笠原代々記』にはそうなっていました)。どうも資料を書いた人がこれを又聞きか何かで勘違いしたみたいですね。以上、夏の陣で大奮戦した小笠原秀政さんでした。

参考文献:松本市史・三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜日本の戦史 大坂の役

UPDATE 2002年8月20日
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