細川忠興

(ほそかわただおき)

生没年:1563〜1645年/ 身分:豊前小倉40万石の大名/ 官位(通称、号):越中守

細川忠興とガラシャの像
京都府長岡京市の勝龍寺城にある忠興とガラシャの像

【足利家の家臣】細川藤孝の長男。幼名・熊千代。幼い頃に一時的に奥州細川家の養子となったが、教育は実家で行われた。1577年2月の紀伊雑賀衆攻めで初陣し、同年10月の大和片岡城攻めでは織田信長から感状を受けるほどの活躍をする。
 1578年に織田信忠から一字を与えられて忠興と名乗った。またその年に明智光秀の娘・玉(ガラシャ)を妻とする。1579年7月に光秀・藤孝と共に丹波攻略に参加して、翌年の1580年には細川親子で丹後を攻めて一色氏を降伏させ、信長から丹後一国を賜った。

関白秀次自刃の間
高野山の金剛峯寺にある関白秀次自刃の間

【光秀を見捨てる】1582年、本能寺の変が起こった際、藤孝は信長を討った光秀から誘われるがこれを断り、剃髪して家督を忠興に譲る。この時に玉と離縁し山奥に押し込めて光秀に協力しない意志を鮮明にした。そして豊臣秀吉に協力し、そのおかげで秀吉から丹後内の光秀領を譲られたばかりか、一度離縁した玉と復縁をも認められている。
 その後、忠興は1583年の賤ケ岳の戦いで越前に攻め入り柴田軍を攪乱させ、1584年の小牧長久手の戦いでは織田信雄軍を撃退するなど秀吉のために活躍し、1585年には羽柴姓を賜った(翌年には豊臣姓も賜っている)。

【疑惑】1590年の小田原征伐後、陸奥会津100万石に移封の話があったが「ご命令なら受け取りますが、功を賞されてということならは領地が少なくとも西国にて賜りたい」と断っている。
 1595年に豊臣秀次が謀反の罪で処刑されると、忠興が秀次から黄金百枚を貰っていたということが問題となった。この際、忠興は謀反に荷担するために貰ったわけではなく借りていただけだと弁解し、長女を人質として出し、黄金は徳川家康から借りて難を逃れている。

大徳寺高桐院
忠興が葬られた京都市北区紫野にある大徳寺高桐院

【小倉へ】1598年に秀吉が、1599年に前田利家が亡くなると、忠興らは恨みのあった石田三成を襲ったが取り逃がしている。同年10月、前田利長に謀反の疑いがかかると親族(忠興の息子・忠隆の妻が利長の妹)の忠興にも疑惑の目が向けられた。しかし必死の弁明で疑いを晴らし、三男・忠利を江戸に人質に出している。この時に前田家との縁を切り、付き合いが再開されるのは1698年と言う100年も後のことになる。家康はこの忠興の態度に満足して豊後杵築に6万石を加増した。
 三成が上方で挙兵すると家康の転進に従い、関ヶ原の戦いでは石田軍相手に奮戦し首級136を得る。またこの時、居城・宮津城を藤孝が西軍の手から守りきり大軍をそちらに引き付けたため、それらの功で豊前小倉40万石を賜った。
 大坂の陣が起こるとこれに従軍した。戦後、豊臣軍について戦った次男・細川興秋を切腹させている。1620年に家督を忠利に譲り剃髪して三斎と号した。1632年、肥後の加藤忠広が改易されると、細川家はそこに移封され、忠興は八代に移って隠居所としている。そこで忠利を補佐し1645年12月2日死亡した。京都市北区紫野の大徳寺高桐院に葬られた。

細川忠興の墓
熊本市黒髪4−610の立田自然公園にある忠興の墓

管理人・・・忠興は武将として一流で、父親の二人で小大名から豊後40万石にまで出世しています。父親は文化人なのに、忠興はなぜ武功派とか言われるほどの猛将なのかなと思っていましたが、父親も剣術を塚原卜全に習って弓術なども優れた武将だったそうです。
 大坂の陣の際に藤堂高虎軍についていき、八尾の戦いで一緒に戦ったという記憶がありますが、記憶違いかもしれません。

 忠興は様々な大名家と交流がありましたが、その中の一つ・森家とはこんな話があります。森忠政が津山築城の際に小倉城を参考にするため大工の保田惣右衛門を豊前に密かに派遣し、船上から写し取っていましたが、これが細川家の者にばれて捕まってしまいました。そこで惣右衛門が事情を正直に話すと、忠政と親しかった忠興は城を見ていくことを許可し、津山城が完成した際には細川家の家紋の入った鐘を送ったそうです。
 この鐘は南蛮鐘(キリシタンと何か関係があったようです)と呼ばれ、現在は大阪市北区にある南蛮文化館にあります。以上、苛烈な性格で戦国時代を乗り切った細川忠興さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国大名諸家譜戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年9月14日
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