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1578年に織田信忠から一字を与えられて忠興と名乗った。またその年に明智光秀の娘・玉(ガラシャ)を妻とする。1579年7月に光秀・藤孝と共に丹波攻略に参加して、翌年の1580年には細川親子で丹後を攻めて一色氏を降伏させ、信長から丹後一国を賜った。
その後、忠興は1583年の賤ケ岳の戦いで越前に攻め入り柴田軍を攪乱させ、1584年の小牧長久手の戦いでは織田信雄軍を撃退するなど秀吉のために活躍し、1585年には羽柴姓を賜った(翌年には豊臣姓も賜っている)。
【疑惑】1590年の小田原征伐後、陸奥会津100万石に移封の話があったが「ご命令なら受け取りますが、功を賞されてということならは領地が少なくとも西国にて賜りたい」と断っている。
三成が上方で挙兵すると家康の転進に従い、関ヶ原の戦いでは石田軍相手に奮戦し首級136を得る。またこの時、居城・宮津城を藤孝が西軍の手から守りきり大軍をそちらに引き付けたため、それらの功で豊前小倉40万石を賜った。 大坂の陣が起こるとこれに従軍した。戦後、豊臣軍について戦った次男・細川興秋を切腹させている。1620年に家督を忠利に譲り剃髪して三斎と号した。1632年、肥後の加藤忠広が改易されると、細川家はそこに移封され、忠興は八代に移って隠居所としている。そこで忠利を補佐し1645年12月2日死亡した。京都市北区紫野の大徳寺高桐院に葬られた。
大坂の陣の際に藤堂高虎軍についていき、八尾の戦いで一緒に戦ったという記憶がありますが、記憶違いかもしれません。
忠興は様々な大名家と交流がありましたが、その中の一つ・森家とはこんな話があります。森忠政が津山築城の際に小倉城を参考にするため大工の保田惣右衛門を豊前に密かに派遣し、船上から写し取っていましたが、これが細川家の者にばれて捕まってしまいました。そこで惣右衛門が事情を正直に話すと、忠政と親しかった忠興は城を見ていくことを許可し、津山城が完成した際には細川家の家紋の入った鐘を送ったそうです。 参考文献:三百藩藩主人名事典・戦国大名諸家譜・戦国人名事典 コンパクト版、ほか UPDATE 2002年9月14日 Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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