土井利勝

(どいとしかつ)

生没年:1573〜1644年/ 身分:下総佐倉45000石の大名/ 官位(通称、号):大炊頭

土井氏一族発祥地の碑
岡崎市にある土井氏一族発祥地の碑

【謎の出生】三河土居出身の武将・土居利昌の長男といわれているが、徳川家康の落胤、または水野信元(家康の叔父)の子という説もある。浜松で生まれた。幼少から家康に仕え、徳川秀忠が生まれるとその小姓となる。関ヶ原の戦いでは秀忠軍に従った。1602年に下総小見川1万石の大名となり、1610年に佐倉32400石に移封され老中となる。1612年には加増され45000石の大名となった。

【逃げ大炊】大坂の陣では秀忠につけられて従軍する。天王寺・岡山での最終決戦大野治房に追い詰められ、味方の兵士達から『逃げ大炊』と呼ばれる醜態をさらした。だが徳川軍が反撃に出ると首級98をあげている。
 陣後、その功で加増され62500石となり、さらに1625年には14万石に加増された。1633年には下総古河に移封され16万石となった。1638年に大老となる。1644年7月10日死亡。法名・穏誉泰翁覚玄宝地院。東京都港区芝公園の増上寺に葬られた。

利勝夫妻の墓
茨城県古河市大手町7ー1に建つ利勝夫妻の墓

管理人・・・利勝の家康〜家光三代の信頼は厚く、1613年に大久保忠隣に謀反の疑いがかかった時に家康に最初に相談されていますし、その後の大名家の改易政策・鎖国政策・キリシタン弾圧などの重要な政策すべてに関わっています。そのため、金地院崇伝からは「誰もが利勝殿ヘ頼むようになった」と言っていますし、秀忠から家光に将軍職が譲られた際に「天下と共に利勝を譲る」というほどの信頼を得ていました。
 しかしそうなっても利勝は独断専行にはならず、人の意見もよく聞き、重要なことはみんなで話し合って決めていたので政敵が少なかったようです。大体そういう人は、一人でつっぱしって政敵に足元をすくわれて隠居して失意のうちに死亡、ってのが典型的なパターンなんですが最後の最後まで大事にされています。
 重要な地位にいたため領地にはなかなか戻れず、弟を家老にして領内のことは任せています。以上、徳川幕府初期の重要人物、土井利勝さんでした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版三百藩藩主人名事典江戸幕閣人物100話、ほか

UPDATE 2004年10月11日
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