本多康俊

(ほんだやすとし)

生没年:1569〜1615年/ 身分:三河西尾2万石の大名/ 官位(通称、号):縫殿助

西尾城
本多康俊が城主だった愛知県西尾市にある西尾城

【人質】徳川四天王の一人・酒井忠次の次男として生まれる。徳川家康の祖父・松平清康の外孫にあたる。1575年の長篠の戦いの際に家康の命で織田家の人質として安土(岐阜城との説もある)に行き、1580年に本多忠次の養子になった。1590年に小田原征伐が起こると、豊臣家の人質として聚楽第に行く。同年に徳川家が関東に移されると、下総小篠で5千石を賜った。

【膳所城主】関ヶ原の戦いの功で1601年に三河西尾へ2万石で移封される。大坂冬の陣では近江膳所城を守備し河内国内で騒ぎが起きた際に鎮圧している。夏の陣では参陣し首級105をあげた。1616年に家康が亡くなり、岡崎の大樹寺で法会が行われた時に奉行を務める。1617年に大坂の陣の功で守備していた近江膳所3万石に栄転した。1621年2月7日死亡。法名・輝厳縁崇梅香院。滋賀県滋賀県大津市丸の内町1−20の縁心寺に葬られた。

膳所城
康俊が城主だった滋賀県大津市本丸町にある膳所城

管理人・・・康俊にはこんな話があります。ある日、息子たちが槍の稽古をしていると、それを見た康俊は怒り出し「合戦の時に槍で戦うのは小身の武士のすることだ。大身の武士は采配などを稽古するべきだ。自分も昔は槍を取って戦っていたが家康様によって大身に取り立てられてからは指揮の仕方の工夫ばかりをしている。お前たちも自分の跡を継ぐ覚悟をしてその稽古をしろ。小身の武士の真似は無用だ」と言ったという。
 ただこのお話が載っていた『武者物語』には『本多平八郎康俊』という誰だかよく分からない名前になっているので、もしかしたら忠勝のお話かもしれません。

参考文献三百藩藩主人名事典徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜戦国人名事典 コンパクト版・雑兵物語

UPDATE 2001年8月9日
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