榊原康勝

(さかきばらやすかつ)

生没年:1590〜1615年/ 身分:上野館林10万石の大名/ 官位(通称、号):遠江守

館林城
康勝が城主だった群馬県館林市城町にある館林城

 榊原康政の三男として小田原の駅舎で生まれた。母は康政の側室・花房氏。1598年に徳川家康秀忠親子に拝謁し、1605年の上洛に従う。1606年に康政が死亡すると上野館林10万石を継ぐ。
 大坂冬の陣に従軍し今福の戦いでは堀尾忠晴などと共に苦戦する佐竹義宣の救援で活躍した。それらの功を徳川秀忠から褒められている。夏の陣では5月6日の若江の戦い木村重成隊の左翼を撃破する活躍を見せたが、翌日の天王寺口に布陣した天王寺・岡山での最終決戦では毛利勝永隊に大打撃を与えられ家臣に多くの死者を出した。
 大坂夏の陣で腫れ物に苦しめながらも戦ったため京都に戻った1615年5月27日に死亡する。法名・心光院殿長誉了英大禅定門。群馬県館林市楠町3692の善導寺に葬られた。

榊原康勝の墓
群馬県館林市楠町3692の善導寺にある榊原康勝の墓

管理人・・・上では腫れ物って書いてますが、『難波戦記』では「榊原康勝は大坂の陣の最中に痔漏(いぼぢ、あなぢ)が破れて、血が流れて鞍壺に血がたまっても戦っていたが、京都に戻って死亡した」と書いてありました。
 最初は「痔か・・・」と思っていましたが、ネットで調べてみると、現在の日本の人口のなんと75%が痔主という国民病で笑えるような話じゃあないんですよね。
 あと康勝が亡くなった時に妾のお腹に男の子がいましたが、家臣達から反対意見があって実子がないという報告を幕府にしました。その後、その子(平十郎)は召し出されましたが、寛永年間に逐電し高野山に行って出家したと『難波戦記』に書いてありました。そういう理由で榊原家は康勝の甥・大須賀(榊原)忠次が継いでいます。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版・難波戦記・大坂の役

UPDATE 2003年12月18日
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