≫
人物一覧≫
【人物の紹介】→
次の武将
|
【暗殺疑惑】1599年10月に徳川家康暗殺の疑惑をかけられ浅野長政らと共に失脚し下総結城に流されるが、関ヶ原の戦いの前に許され上杉征伐に従軍している。関ヶ原の戦い後、豊臣家の重臣達が一斉にいなくなると大坂城内で発言力を持つようになる。大坂城内の主戦派の筆頭で、片桐且元に徳川家との内通が噂されると彼を討ち果たそうとした(結局はそれは叶わず大坂城から追い出すだけになってしまったが)。穏健派がいなくなり、ますます発言力が強まった治長は浪人達を集め徳川軍を迎え撃つ準備をし、大坂の陣が始まるきっかけを作る。
1615年1月、徳川家の違約ですべての堀が埋められ、大坂城は完全に裸城となってしまう。そこに家康が無理難題を吹きかけ再戦のムードが漂い始めたため、治長の対応に非難の声が集まった。そんな中の4月5日、治長は桜門の近くで刺客に襲われ怪我を負う。襲わせたのは大坂の陣を通して治長と仲の悪くなった弟の大野治房だと言われている。それからは治房や木村重成、浪人衆に主導権が移り、夏の陣が始まることとなった。 【豊臣家と心中】1615年5月7日、豊臣軍が天王寺・岡山での最終決戦に敗れ大坂城内に徳川軍が殺到すると秀頼一行と共に山里曲輪に逃げこんた。そこで千姫を助けることを交換条件に秀頼・淀殿親子の助命を願うが、徳川家はそれを許さず、結局は親子と共に自害して果てる。享年は45歳くらいだと思われる。
和議も淀殿の意向だけではなく、銃弾などが底をつくわ、金はないわ、大名は誰も味方につかないわで、これ以上がんばっても意味がないと思ったんでしょう。結果的には掘を埋められ再戦を余儀なくされていますが、和議は仕方がなかったのでは。ただ堀の埋め立てに関しては詰めが甘かったかもしれません。 話しが変わりますが治長は古田織部に茶道を習い奥義を極めたほどの達人だったそうです。
あとエピソードと言えば、大坂城の濠が埋め立てられてしまった後に、浪人達が「この状況では戦えないから退去する。だから金をくれ」と言った時に、治長は「そんな余分な金はない」と突っぱねたそうな・・・。これも治長のことを悪く言う話しとしてありますが、本当に金がなかっただけなのでは。 参考文献:戦国人名事典 コンパクト版・大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略・大坂の役、ほか UPDATE 2001年11月18日Copyright (C) 2001 Tikugogawa. |
≫
人物一覧≫
【人物の紹介】→
次の武将
|