浅野長晟

(あさのながあきら)

生没年:1586〜1632年/ 身分:紀伊和歌山38万石の大名/ 官位(通称、号):但馬守

和歌山城
長晟の居城・和歌山城

【豊臣家の縁者】浅野長政の次男。母は浅野長勝の娘。若狭小浜に生まれる。幼い頃より豊臣秀吉の小姓となり、1597年には3千石を与えられた。関ヶ原の戦い後は徳川家康に仕え1610年に備中足守2万4千石を与えられた。
 1613年に紀伊和歌山の大名であった兄・幸長が亡くなると彼に子供がいなかったため、その後を継いで浅野家の当主となる。この時、2万4千石からいきなり38万石の大名となることに問題はないか、長晟の弟・長重の方がいいのではないか、などという意見があり浅野家は二つに分かれるが長晟の母が彼を支持したので解決している。

【苦労続き】翌年、大坂の陣が起こると、豊臣家の誘いを断り、徳川軍の一員として7000の兵を率いて船場口に陣を敷き、木津川口の戦いで奮戦した。また国許で熊野一揆(紀州一揆)が起きたが、これは家臣の活躍で鎮圧している。
 その翌年の1615年に夏の陣が起こると、再び一揆が起こる気配があったので、出陣を見合わせていたが、幕府から急ぎ出陣するように命令があったため5000の兵を率いて大坂を目指した。その途中、大野治房軍と遭遇したが、これを撃退し(樫井の戦い)、国許の名草・日高地方で起きた一揆も引き返して鎮圧している(紀州一揆)。

広島城
浅野家累代の居城・広島城

【広島へ】大坂城落城後に上洛して両将軍に会い活躍を賞された。1616年正月に家康の娘と結婚する。1619年7月、安芸広島の福島正則が改易されると、幕府は長晟が山陽道の要を任せられる人物ということで安芸(及び備後半国)43万石へ移封した。
 広島に移った長晟は四人の家老をそれぞれ三原・三次・小方・東条の重要拠点4ヶ所に配置しようとしたが、これに対して三次の守備を命じられた浅野良重が反発し屋敷に立て篭もってしまった。父・長政の甥だった彼は以前から長晟に反発していたため、当主への権力の集中のため、良重を謀殺し騒動を解決させる。
 その後、長晟は領土の発展に力を尽くし、農村支配の基本となる『郡中法度』の発布、城下町への人口流入を黙認し商業経済の発展の促進、また海運業に力を注ぐなど、現在の広島市の基礎を築いている。1632年9月3日死亡。享年47歳。遺体は長晟自身が創建した国泰寺に葬られた。

浅野家墓所
高野山にある浅野家墓所

管理人・・・大坂の陣に参加した徳川軍大名の中で一番大変だったのはこの浅野家ではないでしょうか。冬・夏の陣で領内は一揆が頻発したのでその対処に追われて、樫井では大野軍と戦っています。場所が大坂に近い上に、豊臣家と一番親しい間柄なのに彼らの誘いを断ったわけですから、いろいろ起こるのは仕方が無いことなんですけどね・・・。

 長晟が大名になった際に長政が注意を促した文章が残っています。その内容は『兄の幸長は今のお前の年くらいには立派な武将に成長しており、親孝行な息子だ。それに対してお前は無心をするし心配ばかりかける。大名になったのを機会に諸事慎むように』というもので、苦労せずに育った長晟のことを心配しています。戦国時代が終焉に向かっているころに生まれたので、どうも頼りなかったんでしょうね。以上、大坂の陣で奮戦した浅野長晟さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜大坂の役・和歌山県史、ほか

UPDATE 2003年1月29日
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