岡部則綱

(おかべのりつな)

生没年:不詳/ 身分:豊臣軍の部将/ 官位(通称、号):大学

樫井の戦いの碑
則綱が奮戦した大阪府泉佐野市南中樫井にある樫井の戦いの碑

 最初、今川家の家臣・朝比奈信直に仕えていたが、そこを辞して上方に上り、いろんな大名を渡り歩いた。大坂の陣が起こると入城し、大野治長の組に属して戦う。
 1615年の樫井の戦い塙直之淡輪重政らと共に浅野軍と交戦し負傷した。この際、先鋒争いを直之としたため彼を死に追いやっている。そのため仲の悪かった直之を見殺しにしたと噂され、自害しようとしたが、毛利勝永にそれを止められる。大坂城が落ちると、逃げ延びて名前を変えて暮らしたという。

管理人・・・陣後、隠遁していた時に、大坂の陣のことを聞かれると「我は男を捨てたので話すことは無い」と答えたそうです。直之のことが心に引っかかっていたんでしょう。
 彼のことは『大坂御陣覚書』にも書いてありそこには『元は犬塚大学と言い加藤嘉明の家来の時に塙団右衛門と同僚で親しかった。また彼は嘉明の甥の河村権七の母方の叔父(ややこしい!)になる。大坂の陣後、男をやめて愧世庵(きせいあん、世間に対して愧じる(恥じる)という意味だと思われる)と名乗って隠居した』んだそうです。

参考文献大日本史料(第十二編15〜20)大坂の役

UPDATE 2002年3月19日
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