●備前 金川城(玉松城)
住所:岡山県岡山市北区御津金川、御津草生、御津下田
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、堀切、虎口、土橋
標高:221メートル/比高:182メートル
別名・玉松城。宇甘川と旭川の合流点に位置する水運の重要地点であり、陸運では天神山、備中松山城、斎田城など岡山県北西部から岡山県南東部を結ぶ金川道に位置する水陸両方の要衝だった。
築城の時期や人物には諸説あり、承久3(1221)年の承久の変の功のあった松田十郎盛朝が築城した、建武年間(1334~38年)に盛朝の後裔・重明が築城した、文明12(1480)年に備前守護・赤松氏に反旗を翻した守護代の松田元成が備前富山城から当地に移って築城したなどの説がある。いずれにしても室町時代初期から当地に松田氏の一族がおり、元成の時代に拡張したのであろう。永禄11(1568)年、宇喜多直家に攻められ落城し以後は宇喜多氏の城となった。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで宇喜多氏が改易されると備前を支配した小早川秀秋の家臣が入り、秀秋が没して池田氏が入ると重臣の日置氏が城主となる。寛永15(1638)年の島原の乱後、廃城になった。
城は本丸を中心に南西の道林寺丸、北側の北の丸、南東の二の丸と出丸に大きく分かれている。
(妙覚寺のある西の登山口から登って行くと道林寺丸の曲輪群に出る)
(北の丸の曲輪群と北の尾根を分断するための複数の堀切。先に進んでも多少の削平地がある程度で、途中から登山道のようになったようなので引き返した)
(北の丸の北東の端にある曲輪。縄張図だと大きな堀切があるとのことだったが分からなかった)
(本丸の曲輪群の一角にある白水の井戸とその周りの曲輪。こういう深い井戸で囲いがないのは珍しい。写真だと伝わりづらいが撮影中に「落ちたら上がるのは無理だな」と考えるほどの深さだった)
(天守の井戸。こちらの方が広く深いが囲ってあるので多少は安全)
(出丸の曲輪群。ここら辺から縄張図のどこを歩いているのか分からなくなっていった。きっと疲れて面倒臭くなったのだろう)
感想:とにかく広い。2時間以上は城の遺構を見ていました。整備も行き届いておりお勧めの城です。駐車場は自分でなんとかしてください。
ここが初めて縄張図を見ながら廻った岡山県の山城で「これだけ立派な山城が岡山県にはあるのか。これから度々、岡山県の山城を見に行こう」と思うきっかけになった城でした。