●肥前 原城(春城、志自岐原城、日暮城、有馬城)
住所:長崎県南島原市南有馬町乙・丁(字 三ノ丸、南三ノ丸、厩、西二ノ丸、本丸、出丸など)
駐車場:あり
遺構:曲輪、空堀、石垣、櫓台跡、破城跡
標高:31メートル/比高:31メートル
国指定史跡。世界文化遺産。岬(原の島、ハルの島)に築かれた城で、当時は東西と北に有明海が入り込んでおり、西は湿地帯という地形であった。
明応5(1496)年、有馬貴純が築城したと伝わっているが、貴純の没年は明応2年といわれ詳細な築城時期は不明である。島原半島に勢力を拡大した有馬氏が本拠地・日野江城の支城として築いたと思われる。
天正11(1583)年に火災が遭ったという。外国人宣教師の報告書によると慶長4(1599)年から慶長9(1604)年に新たに築いた城があり、有馬家の当主や家臣の屋敷の他、三重の櫓もあったという。これが原城ではないかという説もある。
慶長19(1614)年、有馬氏が日向延岡(宮崎県延岡市)に移封されると、一時天領になった後、元和2(1616)年に松倉重政が日野江城に入った。この頃、一国一城令で原城は破却されているが本格的なものではなかった。島原城の築城が始まると石材などが利用されている。
松倉氏はキリシタンの弾圧、有馬氏の転封で現地に残った旧臣の収入の没収、旧臣も含む農民から石高以上の年貢を納めさせ、できない者には苛烈な取り立てを行った。更に寛永14(1637)年に飢饉が襲ったため、耐えかねた住民たちは同年10月に代官が殺害するという事件が起きると、瞬く間に島原半島全体で農民らが蜂起した。一揆勢は神社仏閣を焼き払って僧侶を殺害しながら島原城に進軍し攻撃するが失敗に終わり、原城に立て籠もる。
同年11月、対岸にある唐津藩(寺沢氏)の飛地・肥後の天草諸島も同じような過酷な状態だったため、蜂起して肥後富岡城を包囲した。しかし失敗に終わり島原半島に上陸して原城に籠もっている。一揆勢は総勢三万弱だったというが正確な人数には諸説ある。このことを知り事態を重く見た幕府は、九州の諸藩に命じて原城を包囲。何度か攻撃するが失敗に終わる。そこで兵糧攻めに切り替え、一揆勢が弱った寛永15(1638)年2月に総攻撃をかけ落城させ、例外を除き一揆勢を皆殺しにした。3月には城が各藩により徹底的に破壊されている。
昭和13(1938)年、国の史跡に指定され、平成30(2018)年には世界文化遺産「長崎と天草地方潜伏キリシタン関連遺産」の一つとなっている。
(駐車場から三の丸に向かう。場所は下にスクロールするとある縄張図を参照。城跡はあちこちが農地になっている)




(二の丸出丸。ここが戦いの最前線になったらしい)






(二の丸のところに谷のようになっている空堀跡)


(いったん戻って三の丸にある板倉重昌の碑に行く。重昌は正月なら一揆勢も油断しているだろうと寛永15(1638)1月に先陣を切って総攻撃を仕掛けたが、胸に銃弾を受けて亡くなった。碑は延宝9(1681)年に建てられている。説明の書いてある碑は重昌ゆかりの三河の石を使っている。ちなみに三河、特に岡崎市は石と石工の街として有名である)

(三の丸の大手門より東側。農地やその跡が目立つ)








(そのまま三の丸を降りて海沿いに出た。朝日が眩しい)


(二の丸に戻る。模擬天守(?)が建っていた)







(本丸)




(原城にあった遺骨を供養するため明和3(1766)年に建てられた骨カミ地蔵)

(本丸で食い違いになっている箇所が正門跡らしい)


(崩れた石垣が集めてあった)

(虎口跡)

(埋門(うずみ)跡)

(本丸門跡)

(天草四郎時貞の像)

(佐分利九之丞の墓。鳥取藩の池田家も88名を派兵しており、その中に九之丞もいた。2月の幕府による総攻撃の際、瀕死の重傷を負い近くにあった石に血刀で自分の名前と日付を刻んで息絶えた。後藤又兵衛の墓などがあることで知られる鳥取市の景福寺にも墓があるという。まさか原城に来て、同じ鳥取から来た人の墓が本丸にあるとは思わんかった)

(本丸にある十字架)

(櫓台跡)

(本丸から先ほど歩いた海岸を望む)

(本丸跡の石垣)

(破壊された石垣。のちの調査で石垣の下からは一揆勢の遺体も多数発見されたという)

(本丸の空堀跡。一揆勢が多すぎて、ここにも小屋があったという))

(天草丸。天草地方の一揆勢が籠もったことから、こう呼ばれている)

(八幡神社にある島原・天草一揆供養碑。慶安元(1648)年に天草の代官・鈴木重成が中華珪法を招いて慰霊祭を行い建立したもの)

(全景)

(おまけ。前日に入った「原城温泉 真砂」と近くにある「原城の宿 城」。大手門の近くにある。「原城の宿 城」は自分の収入ではよう泊まらんかった・・・)




参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、九州の名城を歩く 佐賀・長崎編、長崎県文化振興・世界遺産課、南島原市公式サイト、「第3章 史跡原城跡の概要および現状と課題」、突撃!南島原情報局、池田藩主と因伯のキリシタン、現地の案内板
感想:とにかく広かったです。下のルートマップを見てもらうと分かるが7キロも歩きました。どう回って良いのか分からず、行った順番で掲載しているため、分かりづらいと思いますが、ご了承ください。
原城の慶長4(1599)年説は有馬氏が、土佐の長宗我部氏の本拠地・大高坂山城に対する浦戸城、出雲・伯耆の吉川氏の本拠地・月山富田城に対する米子城のように文禄・慶長の役で豊臣秀吉の要請に少しでも早く応えるため、海城としての役目で一時的に居城にしようとしたのではないかと考えましたが、この頃は既に戦いが終わっているため、その可能性は低そうです。
(縄張図。クリックすると別タブが開きます)

○掲載の縄張図について