阿波牟岐城(長宗我部元親により落城)

●阿波牟岐城
住所:徳島県海部郡牟岐町牟岐浦(字八幡山)
駐車場:八幡神社の駐車場を利用
遺構:曲輪
標高:57メートル/比高:53メートル

 木材を搬出する牟岐浦を管理するために築城されたと思われる。元亀年間(1570~73年)に築城され城主は牟岐大膳允だったという。天正3(1575)年の長宗我部元親の阿波侵攻で落城したと伝わる。中富川の戦いで牟岐右京之進という者が参陣しており、牟岐氏は元親に降ったようである。

(牟岐港と牟岐城)
牟岐港と牟岐城

(曲輪。墓地になっており遺構と後世の改変の区別がつかなかった)
曲輪

曲輪

曲輪

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、日本城郭大系15

感想:麓の放し飼いの犬が私を警戒して吠えながら登ったり降りたりしていたので怖かった思い出があります。
 略歴は牟岐古城が混ざっている可能性があります。


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阿波一宮城(阿波一宮氏の居城、四国攻めの激戦地)

●阿波一宮城
住所:徳島県徳島市一宮町(字城山)
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀
標高:141メートル/比高:119メートル

 阿波一宮氏が居城としていた。天正13(1585)年の四国攻めでは長宗我部元親軍の最重要拠点の一つとして羽柴秀長率いる大軍との激しい攻防戦が繰り広げられた。

(入口の前にある一宮神社に車を駐められますが駐車料金が必要です。必ず払いましょう)
駐車

(入口)
入口

(経筒出土跡。神宮寺跡を開墾中に経筒が出たとのこと)
経筒出土跡

(登山口とこの先にある倉庫跡の間にある神宮寺谷道)
神宮寺跡

(登山道を登ると竪堀に出る)
竪堀

竪堀

(竪堀の北にある倉庫跡。四国攻めでは曖昧な記憶だと秀長軍が鮎喰川の対岸に陣を構えていたはずなので、ここが最前線だった)
倉庫跡

(倉庫跡から見た北東の景色。四国攻めの時は包囲した秀長の軍勢が見えていたのだろう)
北東の景色

(倉庫跡の奥(南)に進むと曲輪群がある)
南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

(湧水)
湧水

(北から来るとドーンとそびえる才蔵丸の切岸)
才蔵丸の切岸

(才蔵丸と明神丸の間にある堀切。現在は登山道になっている)
堀切

(才蔵丸)
才蔵丸

才蔵丸

才蔵丸

(堀切の先にある竪堀)
竪堀

(門跡)
門跡

(明神丸。礎石があり板葺きの建物があって眺望を楽しむ場所だったのではないかと考えられている。一段下には帯曲輪がある)
明神丸

明神丸

明神丸

明神丸

明神丸

(本丸。一宮城といえば、蜂須賀氏の時代に築かれたこの石垣の写真ではないだろうか)
本丸

本丸

本丸

(本丸に建つ若宮神社。一宮氏の歴代当主を祀っている)
若宮神社

(本丸から北に延びる曲輪(釜床跡))
釜床跡

釜床跡

釜床跡

(本丸から南西に進むとある曲輪、堀切、投石用の石)
投石用の石

南西

南西

南西

南西

南西

(更に南西に進むとある小倉丸の虎口、曲輪、土塁。櫓台と書いてあったので櫓があったらしい)
小倉丸

(小倉丸と西の曲輪の間にある竪堀)
竪堀

(小倉丸の西の曲輪)
西の曲輪

(土塁らしいが土橋に見える)
土塁

(椎丸)
椎丸

(水の手丸。上記の椎丸とここは曲輪があるだけで大した防御施設もない。城の北に平野、東から南に谷があって軍が展開できるが、当時西はまともな道もなかったので手薄だったのだろう)
水の手丸

水の手丸

水の手丸

(貯水池)
貯水池

(蔭滝。ここを降る必要があり、かなり危険。貯水池に水が貯まっていなかったので滝は見られなかった。ここにある説明で「貯水池は周囲の曲輪で強固に守られていた」とあった)
蔭滝

蔭滝

蔭滝

感想:広い。とにかく広い。主郭付近などは蜂須賀家の修築でしょうがが他は長宗我部氏の手によるものが多いと思われ、如何にここを重要視していたかが分かります。
 詳しい歴史などについては『廃城をゆく8 決戦の城』を参考にしてください。

(現地の案内図)
現地の案内図


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阿波木津城(篠原自遁の居城、四国攻めの舞台)

●阿波木津城
住所:徳島県鳴門市撫養町木津(字城山)
駐車場:公園の駐車場を利用
遺構:曲輪、土塁、竪堀、横堀
標高:62メートル/比高:53メートル

 南側は断崖となっており北には城の防御のため流れを変えた中山谷川がある。東の孫右エ門山(字名として残る)と西の小山の間に空堀があった。そして中心部には二つの曲輪があったが、昭和33(1958)年の上水道配水池や採土で遺構は大きく損なわれている。
 築城年代は不明だが城主は阿波三好氏の重臣・篠原自遁で長宗我部元親の阿波侵攻に抵抗した。だが天正10(1582)年の中富川の戦いで元親が阿波の大半を手中に納めると阿波に逃亡している。その後、桑野城主・東条関之兵衛が城主になり、天正13(1585)年の豊臣秀長の四国攻めで激しく抵抗したが、水の手を断たれ開城した。その後は廃城になったようである。

(山の中央は木津山公園として整備されており遺構はない)
木津山公園

(東側に残る竪堀)
竪堀

竪堀

(竪堀を上った先にある土塁と横堀)
土塁と横堀

土塁と横堀

(主郭らしいがひどい藪で見学は不可能だった)
主郭

参考文献:徳島県の地名、日本城郭大系15、三好一族と阿波の城館

感想:公園からは登るのが難しくネットで検索したら城郭放浪記さんのサイトに登り口が記載してあって、そこから登りました。


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