阿波 木岐城(木岐(村上)大膳大夫正持の居城)

●阿波 木岐城
住所:徳島県海部郡美波町木岐(字 西町)
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁
標高:59メートル/比高:59メートル

 木岐地区は陸には土佐街道、海には木岐浦があり、両方を見張る位置に築かれていたのが木岐城である。城主は木岐(村上)大膳大夫正持で源頼政の後裔だと伝えられている。正持は天正5年(1577)に三好長治に従って別宮浦で自害したとも、あるいは天正10年(1585)に木岐城が攻められて落城したとも伝わるが詳細は明らかでない。
 子孫の村上氏は近世になると庄屋を務め、現在も家系が続いている。

(東と南東から見た全景。木岐港の対岸から撮影すれば綺麗に写せたようだが、行くのが面倒だった)
全景

全景

(天忍穂耳命を祀る日吉神社)
日吉神社

日吉神社

(鳥居横の道を進むと主郭に行ける)
鳥居横の道

(自分は日吉神社の裏から登った。北東から登って行くと遺構らしき場所に出たが、後世の畑の跡らしい。場所は下にスクロールするとある概略図を参照)
畑の跡

畑の跡

畑の跡

畑の跡

(曲輪1。土塁があった)
曲輪1

曲輪1

(主郭)
主郭

(西側の尾根か曲輪か分からなかった箇所)
尾根

尾根

(曲輪2。城の中で一番広く土塁に囲まれており、「城山(白山)さん」と呼ばれる祠が建つ。城山さんは、戦前は武運長久の神として、戦後は受験合格の神として地元の方の参拝があるという。祠を改築したのは子孫の村上さん)
曲輪2

曲輪2

曲輪2

曲輪2

曲輪2

曲輪2

(城山さんの鳥居。この辺りが虎口になっている)
城山さんの鳥居

城山さんの鳥居

(曲輪3。石は神社のものだろう)
曲輪3

曲輪3

曲輪3

(曲輪4。城山さんの参道になっている)
曲輪4

曲輪4

曲輪4

(城から木岐港を望む)
木岐港

(木岐港と蛭子神社。歩いていたら近所の犬にずっと吠えられていた)
木岐港と蛭子神社

木岐港と蛭子神社

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、三岐田町史、由岐町史 下巻、海部郡誌

感想:近くに四国八十八ヶ所霊場があるため、麓にお住まいの方が遍路と間違えられて「お接待! お接待!」と家から出て来られて、私にジュースを渡そうとされた。悪いので城に行くだけだと伝え、登り口を聞いて終わりました。
 登山用の杖、リュック、帽子を被っていたから勘違いされても仕方が無かったですが。同行二人とは書いてませんでした。

(概略図)
概略図



阿波 吉田城1(阿波吉田氏の詰めの城ヵ)

●阿波 吉田城1
住所:徳島県海部郡海陽町吉田
駐車場:不明
遺構:曲輪、土橋、土塁、井戸跡
標高:122メートル/比高:107メートル

 町指定史跡。吉田本城は山尾根の先端に築かれており、東側には海部川が流れている。西の山頂には「城の腰」と呼ばれる詰めの城・吉田城1がある。北には海部川を監視する目的で築かれたと考えられる吉田城2がある。三つの城郭を総称して吉田城と呼ばれている。
 天正3年(1575)、長宗我部元親が阿波に侵攻すると吉田城は開城し、元親の家臣・北村閑斎が入城した(『土佐物語』『阿波志』)。天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国攻めで長宗我部軍が土佐に撤退すると吉田城は廃城となったとみられる。

(吉田本城の横堀から谷に下って登山道に沿って登ると土橋が出てくる。場所は下にスクロールすると出てくる概略図を参照。他にも登山道があるようだったが確認していない)
土橋

土橋

土橋

(土橋の西にある曲輪1と2)
曲輪1と2

曲輪1と2

曲輪1と2

(上記の西にある曲輪3)
曲輪3

(尾根を登ると出てくる曲輪4。土塁と井戸跡らしき遺構があった)
曲輪4

曲輪4

曲輪4

(曲輪4の一段上にある曲輪5。曲輪4~6の主郭部の中ではもっとも広い。ここも土塁があった。吉田本城と同じく最近建てられた城址碑もある。裏に回って日付を見たら平成26(2014)年に建てられたものだった)
曲輪5

曲輪5

曲輪5

(南西に土橋があり、そこを越えると最も高い位置にある曲輪6に出る。櫓台跡に見えたが)
曲輪6

曲輪6

曲輪6

曲輪6

曲輪6

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館土佐物語、海部郡誌、徳島県海部郡川西村史、海部のふるさとマップ

感想:下山後に地元の方と話した際、吉田城には猿が群れでいて降りて来ては西瓜などを食べるらしいです。城でも遭う可能性があるので気をつけて下さい。曲輪6には城満寺からも行けるらしいですが試してません。
 吉田城2も行きたかったのですが縄張図を忘れ、登り口も調べていなかったため諦めました。

(概略図)
概略図



阿波 吉田本城(阿波吉田氏の居館ヵ)

●阿波 吉田本城
住所:徳島県海部郡海陽町吉田
駐車場:不明
遺構:曲輪、土塁、横堀、竪堀
標高:40メートル/比高:28メートル

 町指定史跡。吉田本城は山尾根の先端に築かれており、東側には海部川が流れている。西の山頂には、「城の腰」と呼ばれる詰めの城の吉田城1がある。北には海部川を監視する目的で築かれたと考えられる吉田城2がある。三つの城郭を総称して吉田城と呼ばれている。
 古くは海部郡の郡司の居館があったと推測されている。伝承によればその後この地を支配した海部氏が城主であったが、『阿波志』によると戦国時代には吉田庸俊が城主であったという。天正3年(1575)、長宗我部元親が阿波に侵攻すると吉田城は開城し、元親の家臣・北村閑斎が入城した(『土佐物語』『阿波志』)。天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国攻めで長宗我部軍が土佐に撤退すると吉田城は廃城となったとみられる。
 吉田庸俊についてであるが、元親の家臣に吉田康俊がおり、吉田城主だった吉田某と混同された可能性がある。
 現在は城域の一角に春日神社が建ち、一部の遺構が破壊されているが概ね良好な状態である。春日神社は祭神が天児屋根命で、慶長14年(1609)に造築している。

(入口付近には丁寧に案内がある)
入口付近

(春日神社への入口)
入口付近

(春日神社の鳥居周辺の曲輪2。吉田城主の墓が建っている。場所は下にスクロールすると出てくる概略図を参照)
曲輪2

曲輪2

曲輪2

曲輪2

(手水舎などが建つ曲輪1)
曲輪1

曲輪1

曲輪1

曲輪1

(春日神社の社殿)
社殿

(各所に手書きの案内があるので迷うことはない)
手書きの案内

(土塁に囲まれた主郭。最近、建てたと思われる城址碑があった)
主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

(主郭の虎口)
虎口

(主郭背後の横堀)
横堀

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館土佐物語、海部郡誌、徳島県海部郡川西村史、海部のふるさとマップ

感想:先達の方々のサイトを読むと春日神社への道が藪になっていたようですが、今は草刈りがしてあり登りやすくなっています。

(概略図)
概略図