阿波 由岐城(由岐氏の居城)

●阿波 由岐城
住所:徳島県海部郡美波町西由岐(字東)
駐車場:なし
遺構:曲輪
標高:21メートル/比高:17メートル

 由岐浦と土佐街道を押さえる位置にあるが、同じような立地条件にある牟岐浦や宍喰浦と違い材木の搬出ではなく船舶の寄港地としての役割が大きかったと思われる。現在は埋め立てられているが、当時は由岐港に面していたようだ。
 築城年代は不明だが、城主は由岐隠岐守有興と伝わり、天正3(1575)年の長宗我部元親の阿波侵攻に際し降伏したという。しかし天正10(1582)年の中富川の戦いでは三好方として戦死した中に由岐善左衛門の名が上がっており、織田信長と元親の関係悪化に際し由岐氏は三好方に帰参していた可能性がある。その時に廃城になったという。現在は城山公園として整備されている。
 城域の可能性が指摘されている公園の西に建つ西由岐八幡神社は天正17(1589)年の創建と伝わり、本祭で奉納される西由岐のうちわ踊りは県指定無形民俗文化財で阿波踊りの原型ともいわれる。

(由岐城と由岐港。港の沖で幕末に幕府軍と薩摩軍による阿波沖海戦が行われた)
由岐城と由岐港

(忠魂碑や祠が建つ城山公園(主郭?))
城山公園

(切岸らしい)
切岸

(西由岐八幡神社。地図を見る限り、境内ではなく背後の後山が城だったのだろうか)
西由岐八幡神社

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、現地の案内板、関西祭.com

感想:特にないです。


写真の提供についてはこちらをクリック


阿波 上大野城(城内神社。仁木伊賀守の居城)

●阿波 上大野城(城内神社)
住所:徳島県阿南市上大野町大山田
駐車場:なし
遺構:曲輪など
標高:138メートル/比高:83メートル

 西に那賀川が流れ、その西と南は崖になっている。城山全体が『大野の城山の花崗岩類』として徳島県の天然記念物に指定されている。永禄8(1565)年、仁木伊賀守が築城し居城としていたという。だが『古城諸将記』『城跡記』『阿波志』などで記載が違っており近世の時点で分からなくなっていたようである。
 天正10(1582)年、長宗我部元親の軍勢に攻められ落城した際、城主は逃げ出して隠れたが鶏が鳴いたため長宗我部兵に殺されたという伝承がある。そのため、この地区では鶏を飼ってはいけないという。『阿波志』では攻められていた際、那賀川の水を鉄の鎖で吊した瓶で水を汲んでいたが、長宗我部軍に射落とされてから水を汲めなくなり落城したという伝承が記載されている。
 城山神社の祭神は素戔嗚尊。同町城之内に建つ城内神社の飛地境内社である。

(多分、一の鳥居)
一の鳥居

(社殿(主郭)の一段下ある曲輪。二の段とでも呼ぶべきか)
二の段

(主郭)
主郭

主郭

主郭

(主郭から南西方面を望む。目の前の川が那賀川)
南西方面

(三の段になると思う。見ての通り、参道は整備されており登りやすい)
三の段

(参道の途中から北東方面を望む。那賀川や瀬戸内海が見える)
北東方面

(前の史跡から上大野城に行く途中にあった『道の駅 わじき』の釜玉うどん)
釜玉うどん

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、現地の案内板

感想:竪堀、虎口、堀切があったらしいですが、全く分かりませんでした。前は遺構が明確な形であったらしいのですが参道整備で破壊されたそうです。


写真の提供についてはこちらをクリック


阿波 脇城(武田信玄の異母弟・武田信顕の居城)

●阿波 脇城
住所:徳島県美馬市脇町(字西城山、字大屋敷、字畳屋敷、字新山)
駐車場:不明
遺構:曲輪、堀切、土塁、石垣、井戸など
標高:116メートル/比高:70メートル

 吉野川の北に位置しており南西に延びている舌状台地を利用して築かれ、虎が伏せた形に似ていることから虎伏城とも呼ばれる。東以外は断崖のため容易に攻められない地形になっていた。
 藤原仲房が築城し戦国時代には脇氏が居城したという。天文2(1533)年、三好長慶が築城(改築?)し三河守兼則が守備した。弘治年間(1555~58年)以降に武田信玄の異母弟で長慶の家臣だった武田信顕が城主となる。天正7(1579)年、信顕は阿波岩倉城主・三好康俊らと謀って長宗我部元親に通じ三好勢を騙し討ちにした。
 本能寺の変の直前、信顕は織田信長に従っていた三好氏に帰参するが変が起こったことにより元親の勢いが戻り、攻められ落城している。天正13(1585)年の四国攻めでは長宗我部親吉が守備した。元親が豊臣秀吉に降伏すると蜂須賀氏が阿波を支配し家臣の稲田氏が入る。寛永15(1638)年、一国一城令により廃城となった。

(城の登り口にある秋葉神社)
秋葉神社

(もっとも北東にある3の曲輪。畑や宅地になっている。位置は下にある概略図を参照)
3の曲輪

3の曲輪

(3と2の曲輪の間にある土橋と横堀Aと2の曲輪)
横堀Aと2の曲輪

横堀Aと2の曲輪

(横堀B)
横堀B

(土塁)
土塁

(南西に突き出している1の曲輪。ここが主郭だったらしい。井戸跡もあった)
1の曲輪

井戸跡

(麓の館跡に建つ脇人神社。長宗我部兵に殺された武田信顕・信定親子を祀る)
脇人神社

脇人神社

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、日本城郭大系15

感想:今ほど城に興味がなかったので写真が適当です。でももう一度行くほどの遺構ではなさそうです・・・。
 武田信顕については『戦国武将の意外な関係M』に掲載していますので、よかったら読んでみてください。

(概略図)
概略図


写真の提供についてはこちらをクリック