播磨 置塩城(小塩城、藤ノ丸城。赤松氏の居城)

●播磨 置塩城
住所:兵庫県姫路市夢前町宮置(字 城山)
駐車場:あり
遺構:曲輪、竪堀、石垣、竪堀、建物礎石
標高:369メートル/比高:315メートル

 国指定史跡。文明元(1469)年、赤松政則が築城されたとされるが山名政豊が但馬に撤退した長享2(1488)年頃とも言われる。この時の築城も現在残る山城ではなく麓にあったと推測されている。今の山城は天文年間(1532~55年)に築かれ、現在のような形になったのは元亀年間(1570~73)前後だと夢前町(現・姫路市)の調査で判明した。
 戦国時代の赤松氏の居城だったが、備前守護代の浦上村宗との戦い、尼子晴久の播磨侵攻では城から逃れている。永禄12(1569)年、毛利元就の要請で織田信長の軍勢が播磨・但馬に攻め込んだ際、反織田方だった赤松義祐は置塩城を攻められたが持ち堪えた。その後、義祐の子・則房は織田信長に従い、羽柴秀吉が播磨を平定すると置塩城は破城されている。

(全景)
全景

(入口。ここも害獣用の柵を開けて進むようになっていた。道路の向かい側には駐車場もある)
入口

入口

(登山道は整備され、どれだけの距離を登ったか分かるように石柱もある。山頂付近は18丁(約1900メートル)だったかな)
登山道

(登山道を登ると最初にあるVの南曲輪群。南に延びている。写真は下の案内図のV-7。これからは全て下の案内図に沿って説明する)
V-7

V-7

(南曲輪群V-8)
V-8

V-8

(南曲輪群V-9。急斜面だったので降りなかった)
V-9

(南曲輪群V-5)
V-5

(南曲輪群のオレンジ色のV。伝茶室跡らしい)
オレンジ色のV

オレンジ色のV

オレンジ色のV

オレンジ色のV

(南西曲輪群のオレンジ色のⅥ)
オレンジ色のⅥ

オレンジ色のⅥ

(Ⅵにある竪堀)
Ⅵにある竪堀

(南西曲輪群Ⅵ-2の曲輪)
Ⅵ-2

(南西曲輪群Ⅵ-3の曲輪)
Ⅵ-3の曲輪

(南西曲輪群Ⅵ-3の曲輪の大石垣)
Ⅵ-3の曲輪の大石垣

(南西曲輪群Ⅵ-3の曲輪から南西方面を望む。下を流れている夢前川は、かすかに見える瀬戸内海に出る)
南西方面を望む

(城の中央に位置する曲輪群Ⅱ。伝二の丸らしい。写真はⅡ-2で石垣があり、西には竪堀があった)
石垣

Ⅱ-2

Ⅱ-2

(Ⅱ-3。東には通路に出るための虎口のようなものがあった)
Ⅱ-3

Ⅱ-3

Ⅱ-3

(南北に長いⅡ-4の曲輪)
Ⅱ-4の曲輪

Ⅱ-4の曲輪

Ⅱ-4の曲輪

Ⅱ-4の曲輪

(左右に曲輪がある通路A)
通路A

通路A

(東西に長いⅡ-5の曲輪)
Ⅱ-5の曲輪

Ⅱ-5の曲輪

(Ⅱ-6の曲輪)
Ⅱ-6

(南西曲輪群のオレンジ色のⅡ)
オレンジ色のⅡ

オレンジ色のⅡ

オレンジ色のⅡ

オレンジ色のⅡ

(北東曲輪群Ⅳ。伝二の丸北曲輪群らしい。写真はオレンジ色のⅣ)
オレンジ色のⅣ

(曲輪Ⅳ-2)
Ⅳ-2

Ⅳ-2

(曲輪Ⅳ-3)
Ⅳ-3

Ⅳ-3

(東曲輪群Ⅰ。伝本丸らしい。写真はⅠ-2で曲輪群ⅣとⅠを繋いでいる。石垣が修復中だった)
Ⅰ-2

Ⅰ-2

Ⅰ-2

(曲輪Ⅰ-3)
Ⅰ-3

Ⅰ-3

(曲輪Ⅰ-4)
Ⅰ-4

Ⅰ-4

(南西曲輪群のオレンジ色のⅠ。ここが本丸で建物の礎石が見つかっている。折れた石柱が哀愁を漂わせていた。どうして折れたのか気になった)
オレンジ色のⅠ

オレンジ色のⅠ

オレンジ色のⅠ

(本丸からの景色。曲輪Ⅵ-3からの景色の方が遮るものがなくて良かった)
本丸からの景色

本丸からの景色

(曲輪Ⅰ-5)
Ⅰ-5

Ⅰ-5

Ⅰ-5

(曲輪Ⅰ-6。急斜面だったので降りなかった)
Ⅰ-6

(戻って北東曲輪群のⅣ-4に行く。凸凹していて何がなんだか分からなかった。これが破城の跡・・・? にしては限定的すぎるか)
Ⅳ-4

Ⅳ-4

Ⅳ-4

(Ⅳ-4になぜか潤滑油のスプレー缶が落ちていた)
潤滑油のスプレー缶

(北曲輪群Ⅲ。伝三の丸らしい。写真はⅢ-2の曲輪)
Ⅲ-2の曲輪

Ⅲ-2の曲輪

Ⅲ-2の曲輪

Ⅲ-2の曲輪

(曲輪Ⅲ-3。急斜面だったので降りなかった)
Ⅲ-3

(北曲輪群のオレンジ色のⅢ。西側に竪堀があった)
オレンジ色のⅢ

オレンジ色のⅢ

オレンジ色のⅢ

オレンジ色のⅢ

オレンジ色のⅢ

(Ⅲから西曲輪群Ⅶに移動。写真の曲輪はⅦ-2。自分は直接、西曲輪群を降っていったが案内図にあるように南側に道があるので、そちらを利用した方が安全である。自分も帰りはそちらを通った)
曲輪はⅦ-2

曲輪はⅦ-2

曲輪はⅦ-2

(曲輪Ⅶ-3)
曲輪Ⅶ-3

曲輪Ⅶ-3

(西曲輪群のオレンジ色のⅦ。ここら辺で疲れがピークになり早く帰りたくなった)
オレンジ色のⅦ

オレンジ色のⅦ

オレンジ色のⅦ

(曲輪Ⅶ-4)
Ⅶ-4

Ⅶ-4

(曲輪Ⅶ-5と下に続いている曲輪群。下山のことも考えて、ここで引き返した)
曲輪Ⅶ-5

曲輪Ⅶ-5

曲輪Ⅶ-5

曲輪Ⅶ-5

曲輪Ⅶ-5

(駐車場の一角に建つ山城サミットの碑)
山城サミットの碑

参考文献:兵庫県の地名2、図解 近畿の城郭1、図説日本の城郭シリーズ16 秀吉の播磨攻めと城郭

感想:見ていただいた通り70以上の曲輪がある巨大な山城で播磨地方最大級だそうです。途中で飽きてきて後半は写真が適当になりました。しかも疲れで帰りに居眠り運転をしかけて、ちょっと危険でした。駐車場で仮眠すれば良かったのですが、降りた直後は興奮していたのか眠気がなく出発してから急に眠気が襲ってきました。
 日曜日に行った時は登山客が数組おり、城ではなく登山コースとして人気のようでした。

(案内図。クリックすると別のタブが開きます)
案内図



播磨 南山田城(後藤又兵衛出生の地)

●播磨 南山田城(後藤神社)
住所:兵庫県姫路市山田町南山田(字 城山)
駐車場:不明
遺構:曲輪、土塁
標高:84メートル/比高:8メートル

 16世紀後半に別所氏の家臣・後藤基国が築いたという。ここで基国の次男として生まれたのが大坂の陣などで活躍した後藤又兵衛基次と伝わる。基国が天正6(1578)年から始まった三木城攻防戦で基国が戦死し基次が城主になったというが、諸説あり詳細は不明。

(南山田城の南側は南山田児童公園として整備されている)
南山田児童公園

(遺構のある区域は立入禁止になっている。三段の曲輪と土塁があるらしい)
立入禁止

(周囲や公園との境を回ってみた。城の雰囲気はある)
後藤神社

(公園の一角に建つ後藤神社。天明6(1786)年、村民の大谷長左衛門が後藤一族を祀るため創建した)
後藤神社

参考文献:兵庫県の地名2、歴史と神戸 : 神戸を中心とした兵庫県郷土研究誌 21、武蔵・又兵衛 : 郷土の剣豪たち、郷土の城ものがたり 中播篇、川柳郷土史散歩、現地の案内板

感想:検索すると以前は入れたようですが、現在はご覧の通り立入禁止になっています。



阿波 脇城(武田信玄の異母弟・武田信顕の居城)

●阿波 脇城
住所:徳島県美馬市脇町(字西城山、字大屋敷、字畳屋敷、字新山)
駐車場:不明
遺構:曲輪、堀切、土塁、石垣、井戸など
標高:116メートル/比高:70メートル

 吉野川の北に位置しており南西に延びている舌状台地を利用して築かれ、虎が伏せた形に似ていることから虎伏城とも呼ばれる。東以外は断崖のため容易に攻められない地形になっていた。
 藤原仲房が築城し戦国時代には脇氏が居城したという。天文2(1533)年、三好長慶が築城(改築?)し三河守兼則が守備した。弘治年間(1555~58年)以降に武田信玄の異母弟で長慶の家臣だった武田信顕が城主となる。天正7(1579)年、信顕は阿波岩倉城主・三好康俊らと謀って長宗我部元親に通じ三好勢を騙し討ちにした。
 本能寺の変の直前、信顕は織田信長に従っていた三好氏に帰参するが変が起こったことにより元親の勢いが戻り、攻められ落城している。天正13(1585)年の四国攻めでは長宗我部親吉が守備した。元親が豊臣秀吉に降伏すると蜂須賀氏が阿波を支配し家臣の稲田氏が入る。寛永15(1638)年、一国一城令により廃城となった。

(城の登り口にある秋葉神社)
秋葉神社

(もっとも北東にある3の曲輪。畑や宅地になっている。位置は下にある概略図を参照)
3の曲輪

3の曲輪

(3と2の曲輪の間にある土橋と横堀Aと2の曲輪)
横堀Aと2の曲輪

横堀Aと2の曲輪

(横堀B)
横堀B

(土塁)
土塁

(南西に突き出している1の曲輪。ここが主郭だったらしい。井戸跡もあった)
1の曲輪

井戸跡

(麓の館跡に建つ脇人神社。長宗我部兵に殺された武田信顕・信定親子を祀る)
脇人神社

脇人神社

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、日本城郭大系15

感想:今ほど城に興味がなかったので写真が適当です。でももう一度行くほどの遺構ではなさそうです・・・。
 武田信顕については『戦国武将の意外な関係M』に掲載していますので、よかったら読んでみてください。

(概略図)
概略図


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