●阿波 脇城
住所:徳島県美馬市脇町(字西城山、字大屋敷、字畳屋敷、字新山)
駐車場:不明
遺構:曲輪、堀切、土塁、石垣、井戸など
標高:116メートル/比高:70メートル
吉野川の北に位置しており南西に延びている舌状台地を利用して築かれ、虎が伏せた形に似ていることから虎伏城とも呼ばれる。東以外は断崖のため容易に攻められない地形になっていた。
藤原仲房が築城し戦国時代には脇氏が居城したという。天文2(1533)年、三好長慶が築城(改築?)し三河守兼則が守備した。弘治年間(1555~58年)以降に武田信玄の異母弟で長慶の家臣だった武田信顕が城主となる。天正7(1579)年、信顕は阿波岩倉城主・三好康俊らと謀って長宗我部元親に通じ三好勢を騙し討ちにした。
本能寺の変の直前、信顕は織田信長に従っていた三好氏に帰参するが変が起こったことにより元親の勢いが戻り、攻められ落城している。天正13(1585)年の四国攻めでは長宗我部親吉が守備した。元親が豊臣秀吉に降伏すると蜂須賀氏が阿波を支配し家臣の稲田氏が入る。寛永15(1638)年、一国一城令により廃城となった。
(もっとも北東にある3の曲輪。畑や宅地になっている。位置は下にある概略図を参照)
(南西に突き出している1の曲輪。ここが主郭だったらしい。井戸跡もあった)
(麓の館跡に建つ脇人神社。長宗我部兵に殺された武田信顕・信定親子を祀る)
参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、日本城郭大系15
感想:今ほど城に興味がなかったので写真が適当です。でももう一度行くほどの遺構ではなさそうです・・・。
武田信顕については『戦国武将の意外な関係M』に掲載していますので、よかったら読んでみてください。