筑後守 について

過去の著書 ○もっと知りたい! 長宗我部元親 ○戦国武将の意外な関係 ○「戦国合戦」 意外・驚きエピソード ○大坂の陣・なるほど人物事典

恵日山慈光寺(石見小笠原氏の一族が創建)

●恵日山慈光寺
住所:島根県江津市跡市町647乙

 曹洞宗。本尊は行基の作と伝わる十一面観世音菩薩である。本寺は小笠原氏の菩提寺・長江寺。永禄5(1562)年、福屋氏出身の女性で温湯城主・小笠原長徳の未亡人が創建した。吉川元春が伽藍と寺領を承認したため開基とされている(僧の広山が開基で元春が創建したという伝承もある)。

(全景)
全景

(本堂)
本堂

(鐘楼。鐘は安永2(1773)年に寄進されたもの)
鐘楼

鐘

(宝塔)
宝塔

感想:『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。



阿波 由岐城(由岐氏の居城)

●阿波 由岐城
住所:徳島県海部郡美波町西由岐(字東)
駐車場:なし
遺構:曲輪
標高:21メートル/比高:17メートル

 由岐浦と土佐街道を押さえる位置にあるが、同じような立地条件にある牟岐浦や宍喰浦と違い材木の搬出ではなく船舶の寄港地としての役割が大きかったと思われる。現在は埋め立てられているが、当時は由岐港に面していたようだ。
 築城年代は不明だが、城主は由岐隠岐守有興と伝わり、天正3(1575)年の長宗我部元親の阿波侵攻に際し降伏したという。しかし天正10(1582)年の中富川の戦いでは三好方として戦死した中に由岐善左衛門の名が上がっており、織田信長と元親の関係悪化に際し由岐氏は三好方に帰参していた可能性がある。その時に廃城になったという。現在は城山公園として整備されている。
 城域の可能性が指摘されている公園の西に建つ西由岐八幡神社は天正17(1589)年の創建と伝わり、本祭で奉納される西由岐のうちわ踊りは県指定無形民俗文化財で阿波踊りの原型ともいわれる。

(由岐城と由岐港。港の沖で幕末に幕府軍と薩摩軍による阿波沖海戦が行われた)
由岐城と由岐港

(忠魂碑や祠が建つ城山公園(主郭?))
城山公園

(切岸らしい)
切岸

(西由岐八幡神社。地図を見る限り、境内ではなく背後の後山が城だったのだろうか)
西由岐八幡神社

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、現地の案内板、関西祭.com

感想:特にないです。


写真の提供についてはこちらをクリック


竜峰山海翁寺(阿川毛利氏の菩提寺)

●竜峰山海翁寺
住所:山口県下関市豊北町阿川511-1
駐車場:あり

 曹洞宗。本尊は釈迦牟尼佛。大内氏の家臣・秋枝肥後守興虎が山口市にあった国清寺で出家し、大永元(1521)年に現在地に浄空庵を創建したのが始まりと伝わる。慶長16(1611)年、毛利元就の九男・秀包が亡くなると息子で当地の領主だった元鎮が浄空庵跡に菩提寺を建て黄竜山江見寺と称した。
 寛永2(1625)年、移封された元鎮に替わって毛利元景が領主となる。元景の前領地の玖珂村には、元氏が吉川元春(元氏の父、元景の祖父。戒名・随浪院殿海翁正慧大居士)の菩提を弔うため海翁寺を建立しており移封の際に江見寺のある当地に移転した。以降は阿川毛利氏の菩提寺となり領地の寄進や再建が行われるなど庇護を受ける。昭和14(1939)年、本堂が焼失したが再建された。

(山門)
山門

(鐘楼門。海翁寺には広島県安芸高田市の郡山城下にあった満願寺の梵鐘があり、それがここにあると思われる。市指定有形文化財の梵鐘は毛利輝元が鋳造させ、毛利氏の本拠地移転に伴って広島城下→萩城下に移った後、明治維新後に海翁寺に移されたという)
鐘楼門

(本堂)
本堂

参考文献:山口県の地名、豊北町史、豊北町史2

感想:周りの道が狭くて運転に苦労した記憶があります。