筑後守 について

過去の著書 ○もっと知りたい! 長宗我部元親 ○戦国武将の意外な関係 ○「戦国合戦」 意外・驚きエピソード ○大坂の陣・なるほど人物事典

旧高烏砲台兵舎(呉市の島々や山間部に築かれた13基の砲台のうちの一つ)

●旧高烏砲台兵舎(呉市の島々や山間部に築かれた13基の砲台のうちの一つ)
住所:広島県呉市警固屋(音戸の瀬戸公園内)
駐車場:あり

 高烏(たかがらす)砲台は呉市の島々や山間部に築かれた13基の砲台のうちの一つである。高烏砲台は、日本陸軍が外国艦船の侵入を防ぐ目的で、標高218メートルの高烏台に28センチ榴弾砲6門を配備し、明治29(1896)年から建設を開始。明治34(1901)年に完成させた。この際、兵舎も併設された。大正15(1926)年、戦争の形態が進化したため砲台は放棄されたが、戦争の主役となりつつあった航空機に対抗するため本土防衛用の高射砲が設置される。
 終戦後、砲台は兵舎は放置されたが、昭和36(1961)年に音戸の瀬戸公園として整備された。

兵舎

兵舎

参考文献:現地の案内板、民俗建築 112号、呉市史 第5巻、国土交通省、呉市公式サイト

感想:この時は左足を骨折しながら回っていたので移動が大変だったのを覚えています。



令和7年(2025)のミニ後醍醐レース

令和7年(2025)5月11日(日)、鳥取県西伯郡大山町御来屋の名和公園で行われた「ゆうゆうフェスタ」を見に行って来た。目的は8年振りに復活した「後醍醐レース」。ミニだけど。南朝は何度でも蘇るらしい。

ゆうゆうフェスタ

ゆうゆうフェスタ

ゆうゆうフェスタ

ゆうゆうフェスタ

今回のミニ後醍醐レースは8チームが参加。県外のチームは1チームだけだったかな。県外のチームが優勝すると賞金が町内で消費されないので、町内の方だけが出てほしいらしい。
中学生くらいのチームが司会の方の「下々の方に話してもらいましょう」の下々の意味が分からんかったようだ。そりゃそうだ。

8チーム

午前中に予選が開始。後醍醐帝の候補と家臣三人の四人のチーム。内容は名和氏の家紋合わせ、騎馬レース、水を運ぶ、ムカデレース、手での砂取りで、速さ及び水と砂の重さで記録が良い4チームが残る。
狭い公園で走るので、子供や老人とぶつかりそうになっていた。

予選

予選

予選

予選

午後からの決勝。内容は同じ。これで今年の後醍醐の中の後醍醐、真の後醍醐帝が決まる。
コースに入らないように司会の方が何度も予選と決勝で「天皇が通りますので道を空けてください」と言われていた。天皇が通るなら、どかないといけんわ。
写真は優勝チーム。次回までは後醍醐天皇を名乗れるな。

優勝チーム

後醍醐レースは1998年くらい開催されており、司会の方が「伝統の後醍醐レースが8年振りに復活しました」と発言されていたので、これはもう県指定有形民俗文化財になってもいいのでは。
「ふじ寺(住雲寺)」のゆるキャラ「ふじでらら」というのがいて、子供に大人気だった。中の人はいない。

ふじでらら

ふじでらら

ふじでらら

来年もあるといいな。写真は名和公園から御来屋地区の町並み。

御来屋

御来屋



備中 正霊山城(備中藤井氏の居城)

●備中 正霊山城
住所:岡山県井原市芳井町吉井(字 東吉井)
駐車場:なし
遺構:曲輪、掘切、竪堀
標高:109メートル/比高:45メートル

 北から東にかけて小田川が流れ、天然の濠となっている。南東では小田川と宇戸川が合流し、水運の要衝となっていた。現在は麓に井原市役所の芳井支所があり、広島県神石郡と岡山県高梁市の分岐点となっていることから、陸運の要衝である。当時も同様の状況だったと考えられる。
 築城年代は不明だが、有井城主であった藤井好重が築き、息子の藤井皓玄が城主になったと伝わる。皓玄は神辺城主・山名忠興の家臣であったが、弘治3(1557)年に忠興が跡継ぎがいないまま亡くなって同じ家臣の杉原盛重が毛利氏の意向で神辺城主となったことに憤慨し、正霊山城に籠もって毛利氏に反抗した。だが毛利軍が迫ると京都に逃亡。
 同じく京都で浪人となっていた尼子家の山中鹿介幸盛や立原久綱らと知り合い、永禄12(1569)年に幸盛らが尼子再興戦を開始すると呼応して神辺城を奪取する。しかし九州から戻ってきた毛利軍に神辺城を奪い返され、皓玄の息子・広吉が守備していた高屋城も落とされた。皓玄も御嶽山(笠岡市)の麓で戦死している。

(全景)
全景

(南東の曲輪。場所は下の縄張図を参照)
南東の曲輪

南東の曲輪

南東の曲輪

南東の曲輪

(中央の建物(祠)が記載してある曲輪)
中央の建物

中央の建物

中央の建物

中央の建物

(上記の北にある主郭)
主郭

主郭

主郭

(主郭から芳井支所方面を望む。戦国時代は街道や河川の往来が見えていたのだろう)
芳井支所方面

(北の竪堀)
北の竪堀

(北の掘切。木が多く撮影に苦労した記憶がある)
北の掘切

北の掘切

北の掘切

北の掘切

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編、古城物語 (郷土史文庫 第4巻) 、現地の案内板

感想:永禄12(1569)年に藤井広吉も戦死しますが、息子の利道は生き残り三村親成に仕えます。のちに浪人時代の水野勝成が成羽に寄食した際に知り合い、利道の娘の香源院(於登久)を側室として迎えています。香源院は二代藩主の水野勝俊を産んでいます。
 また利道の息子で香源院の兄である好直は、勝成が備後福山藩主になると重臣となっています。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について