法亀山本性寺(第一次尼子再興戦の戦死者の墓地)

●法亀山本性寺
住所:島根県出雲市小境町132
駐車場:有り
 臨済宗妙心寺派。本尊は阿弥陀如来像。建武4(1337)年、当地の領主・伊藤氏の菩提寺として建てられる。当時は長久寺という寺号だった。永禄12(1569)年の第一次尼子再興戦の際、鳶ヶ巣城が落城した時の戦死者の墓地になったと伝わる。だが、第一次尼子再興戦で鳶ヶ巣城が落城したのかは不明である。天和3(1683)年、金梁文明を中興開山として現在の寺号になった。
 昭和55年(1980)に開創された出雲七福神参りの七番札所になっている。理由は不老長寿の御利益があるという寿老人が祀られているためである。
 辞典には「寿老人は七福神の一人。中国宋の元祐年中の人で寿星の化身という。長寿の神で福禄寿と同体、異名の神という。古くは福禄寿があってこの神がなかった。その像は白い髭(ひげ)が長く垂れ、身の丈三尺(約91cm)の長頭の老人で玄鹿を伴う。玄鹿は千五百歳を経た鹿で、その肉を食うと二千歳の長寿を得るというので後世になってつけ加えられたという。南極老人とも呼ばれる」とある。

(石段)
石段

(山門)
山門

(和顔地蔵)
和顔地蔵

(何か分からない。地蔵菩薩の札が貼ってあったので、それに関係するものだとは思う)
地蔵菩薩の札

(庭)
庭

(本堂)
本堂

感想:『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。



戸倉山西光坊(古志氏の菩提寺)

●戸倉山西光坊
住所:島根県出雲市見々久町1256
駐車場:境内に駐車可能だが入口が狭いため注意が必要

 浄土真宗。寛平年間(889~98年)頃、出雲市稗原町に真言宗の寺として創建された。西日が良く当たる場所にあったことから現在の寺号になる。元亀元(1570)年、栗栖城主・古志重信が毛利氏に降伏し戸倉城に移ると当寺を菩提寺として、七ヶ村に寺領を与えた。天正17(1589)年頃、重信が戸倉城から去ると現在地に移っている。嘉永年間(1848~53年)、浄土真宗に改宗した。
 近世までは大寺院だったと伝わるが、現在は本堂のみが残っており他の寺の住職が兼務しているようである。

(入口)
入口

(本堂)
本堂

感想:駐車場のところにも書いていますが、入口が狭く怖かった記憶があります。どこかで邪魔にならないように路上駐車して歩いた方がいいと思いますが、周りの道も狭いので自分でどうするか考えてください。
 『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。



爾佐神社(松江城の鬼門)

●爾佐神社(にさじんじゃ)
住所:島根県松江市美保関町千酌1061
駐車場:なし

 主祭神は伊邪奈岐命・伊邪奈美命・都久豆美命。通称は爾佐三社さん。創立年代は不明だが延喜式に記載のある古社である。三神を祀っていることから三社大明神と呼ばれていたという。天文21(1552)年、尼子国久が社殿を建立している。
 松江城の鬼門にあったことから、祭日の4月3日には近世には藩主は甲冑を着て騎馬を従え出陣の様相で参拝し、流鏑馬や相撲などが行われていたという。現在でも祭日には流鏑馬神事が行われている。

(参道)
参道

(鳥居)
鳥居

(随神門)
随神門

(御祓所)
御祓所

(拝殿)
拝殿

参考文献:府県郷社明治神社誌料 中、島根県八束郡誌、島根県の地名、中世山陰地域を中心とする棟札の研究

感想:目の前の千酌浦から上陸した尼子再興軍はここで祈願してから忠山城の奪取に向かったのでしょうか。それについては軍記物も含めて何の史料もありません。