衣毘須神社(山陰のモン・サン・ミッシェル)

●衣毘須神社
住所:島根県益田市小浜町630(字 宮ヶ島)
駐車場:あり

 主祭神は事代主命。寛永6(1629)年、宮ヶ島に創建される。慶応3(1867)年、金刀比羅神社が合祀された。
 潮の満ち引きで参道が現れ、大潮や時化の時は参道が海に沈み、干潮時には歩いて渡ることができるため、「山陰のモン・サン・ミッシェル」とも呼ばれている。

(向かって左が衣毘須神社)
日本海

(日本海が綺麗だ)
日本海

日本海

(干潮時はこのように参道が現れる)

衣毘須神社

(しかし鳥居に行くと海水が満ちてきていたので早めに参拝した)
衣毘須神社

(社殿)
社殿

参考文献:神国島根、益田市観光ガイド

感想:益田市の観光案内に必ず載っていたので参拝してみました。



万福寺(鳶ヶ巣城主・宍道政慶の祈願所)

●万福寺
住所:島根県出雲市武志町904ー1
駐車場:あり

 臨済宗。もとは天台宗であったと推測されている。鳶ヶ巣城主・宍道政慶が創建し祈願所としたと伝わる。永禄年間(1558~70年)、出雲で起こった尼子氏と毛利氏の合戦で亡くなった人々を弔うため創建されたという説もある。

(鐘楼門)
鐘楼門

(本堂)
本堂

(近世後期、武志村には馬草(牛馬の飼料にする草)が生い茂り生活の糧になっていた。だが隣の中野村の住民が勝手に取るため、武志村の太田半兵衛と岡田祐蔵が藩に強訴した。これが御法度だったため両人は斬首されている。大正5(1916)年の百回忌に慰霊のため武志義民の碑が建てられた)
武志義民の碑

(六地蔵だったかな)
六地蔵

感想:『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。



松尾山金光寺跡(小野篁、後鳥羽上皇ゆかりの寺)

●松尾山金光寺跡
住所:島根県隠岐郡海士町海士5326(字 東)
駐車場:不明

 真言宗。標高168メートルの金光寺山に位置する。承和元(834)年、副遣唐使であった小野篁は、大使の藤原常嗣と対立したため唐へ渡らなかった。そのため承和5年(838年)に隠岐に流され、海士町の豊田に居住する。このとき、金光寺山の六社権現に百日間参籠し、赦免を祈願したとされる。この時点で金光寺は既にあり、篁は山門から発する火光を見て山に登り、寺に宿泊して仏像を彫ったという。一方で、篁が海士町に滞在中、金光寺はまだ存在せず、百日参籠の満願の夜に地蔵菩薩が現れたのを「京都に帰れる」というお告げを受けたと考え、堂宇を建立して「日照山金光寺」と名付けたとの伝承もある。
 承久3(1221)年、後鳥羽上皇が承久の乱で隠岐に流され海士町に遷られた際、金光寺山に登られ「いざさらば ここを都と さたむべし 松尾の山の あらん限りは」と詠まれた。これにより、山号が「松尾山」に改められた。
 貞享4(1687)年の隠州記には金光寺の記載があるが、明治2年(1869年)に隠岐諸島全域で起こった廃仏毀釈により廃寺となり、仏像も篁が彫ったものを含めて焼却される。その後、再興されることはなかった。

(金光寺山から北を望む。眺めは非常に良く、後鳥羽上皇が四方を眺められ歌を詠んだ気持ちも分かる)
金光寺山から北を望む

(小野篁の歌碑)
小野篁の歌碑

(寺跡にある石仏や歴代住職の墓)
石仏や歴代住職の墓

石仏や歴代住職の墓

石仏や歴代住職の墓

(伊勢神宮の遙拝所)
伊勢神宮の遙拝所

(山神の祠?)
山神の祠?

山神の祠?

(六社権現)
六社権現

六社権現

(不動明王の石像。この池が皮膚病や神経痛に効能があるという霊泉だろうか。参考文献に篁が仏像を作った際、木片が池に落ち鮒に変わったという伝説の池があるとの記載があったが)
不動明王の石像

参考文献:海士町史、隠岐海士の素顔3版、隱岐島、隠岐の国、隠岐島誌、海士町史

感想:海士町はレンタサイクルしかなかったので必死にこいで登りました。大日如来堂があったらしいのですが、探しても分かりませんでした。疲れていたせいかもしれません。