第四回 尼子再興の旅 レポート

 2023年5月20日(土)、新型コロナウイルス(COVID-19)の件も落ち着いてきたので久々に第四回 尼子再興の旅(尼子再興450周年実行委員会 第4回イベント史跡巡り)を開催した。今回も主催のメインは尼子動画の巨匠・エコシエーターさん、事務局が私(筑後守)。

 9時に全員が道の駅に集合。今回は男女の比率が同じというこの手のイベントでは珍しい状況だった。このイベントは3回とも天気が悪かったが今回も朝は小雨が降る状況だった。しかし道の駅に着いた頃には止んでいた。
 集合して自己紹介すると早速、月山富田城に登る。

 月山富田城は何度も来ていて説明がエコシエーターさんなので私は完全に気が抜けていた。エコシエーターさんの説明は上手だし参加者の皆さんはこちらから促さないと写真を撮らないくらい謙虚な方ばかりだったので、後ろにいて何もすることがなかった。
 取りあえず行った場所をダイジェストで紹介します(写真は過去に訪問した際のものです)。

(山中鹿介祈月像。像しか見えない人が大半だと思いますが、尼子力が高い人だけ主催者と参加者の集合写真が見えます)
山中鹿介祈月像

(花ノ壇)
花ノ壇

(山中御殿)
山中御殿

(本丸)
本丸

(巌倉寺に建つ山中鹿介供養塔)
山中鹿介供養塔

 最初は多少肌寒く感じていたが七曲がりを登ったら体も暖まって適温になった。結局、3時間くらい月山富田城にいた。下山してお土産タイムが終わると夢ランドしらさぎに移動して昼食。

(どの名前で予約しているのか気になっていたが尼子サイコウ御一行様だった)
尼子サイコウ御一行様

(昼食)
昼食

(エコシエーターさんがサービスでドジョウの唐揚げを付けてくれていた。ありがとうございます! 初めて食べた)
ドジョウの唐揚げ

(山吹城と本城常光の御城印と御武将。昔、自分が買って来たけど特に必要なかったのであみだくじで当たった人にあげた)
御城印と御武将

 ※食べ物のサービスや景品は毎回のイベントである訳ではありません。主催側の気分次第です。御注意ください。

 食事が終わると再び月山富田城の周辺に戻り何度か車で移動して史跡を廻った。ここもコースの内容をダイジェストに紹介。途中、時間の都合などでコースを若干変更した。

(城安寺。尼子下野守義勝(久幸)の墓が建つ)
城安寺

(尼子家代々奥津城)
尼子家代々奥津城

(新宮党屋敷跡の切岸跡だと思われる場所)
新宮党屋敷跡

(尼子経久に討たれたと伝わる塩冶掃部介の墓)
塩冶掃部介の墓

(山中鹿介幸盛屋敷跡)
山中鹿介幸盛屋敷跡

(山中鹿介が品川大膳と一騎討ちをした一騎討之處の碑。裏の碑文の「大東亜新秩序の建設に当たり」という文言が当時の情勢を感じられた)
一騎討之處の碑

(尼子氏の菩提寺・洞光寺から見た月山富田城全景)
月山富田城全景

(広瀬町の街中にあった吉田くんのマンホール)
マンホール

(三日月公園にある尼子経久の像)
尼子経久の像

(尼子晴久の墓)
尼子晴久の墓

 最後は道の駅に集合して終了。今回は状勢を考慮して懇親会はなかった。次回はできるといいな・・・。

今回の感想
 ・自分の前半の気の抜けぶりはひどかった
 ・参加者の皆様の謙虚さと慣れていた場所ということで今まで一番気楽だった
 ・皆さん様々な方面に詳しくて勉強になった
 ・このイベントで初めて晴れた!!
 ・取りあえず今回も成功だったと思う
 ・素人が主催の集まりに来て下さった皆様、誠にありがとうございました!
 ・行き先は未定ですが5回目も予定しているのでよろしくお願い致しますm(_ _)m


隠岐国府尾城(隠岐守護代・隠岐氏の居城。国府尾神社)

●隠岐国府尾城(国府尾神社)
住所:島根県隠岐郡隠岐の島町港町・下西
標高:121メートル/比高:115メートル

 別名・甲尾城、甲ノ尾城。隠岐守護代・隠岐氏の居城だった。
 中腹に建つ国府尾神社は祭神が応神天皇で、延慶3(1310)年に隠岐守護・佐々木清秀が近江山田荘の八幡宮から勧請したと伝わる。場所は隠岐宮田城の周辺にあったが天文年間(1532~55年)に国府尾城の麓に移された。佐々木氏、山名氏、京極氏、隠岐氏、吉川氏が造営を行い当地を支配した守護、戦国大名の保護を受けている。

(入口の鳥居)
鳥居

(下の縄張図の更に東、城域の東端にある馬場跡。現在は畑や空き地になっている)
馬場跡

馬場跡

馬場跡

(これも下の縄張図の更に東、石段の途中にあった平削地。曲輪に見えるが・・・)
平削地

(Ⅳの曲輪)
Ⅳの曲輪

Ⅳの曲輪

Ⅳの曲輪

(拝殿手前の石段。当時はもっと急斜面の切岸だったのだろうか。その途中に曲輪群があった)
石段

曲輪群

曲輪群

曲輪群

(Ⅲの曲輪に建つ国府尾神社。いつ麓から移転されたのか不明である。私の郷土誌の誤読で宮田城から移った時点で当地にあったのかもしれない。ここから港がよく見える)
国府尾神社

国府尾神社

国府尾神社

国府尾神社

国府尾神社

(上記の曲輪の北西にある堀切)
堀切

堀切

堀切

(堀切の北にある曲輪群。先の石段の曲輪群と繋がっている)
北にある曲輪群

北にある曲輪群

(堀切の北西にある曲輪Ⅴ。この石が何なのか分からないのだが・・・。西に土塁があった)
曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

(本丸にある大山神社の鳥居。虎口か?)
大山神社の鳥居

(曲輪Ⅱ)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(曲輪ⅡとⅠの間にある堀切A。井戸跡もあった)
堀切A

堀切A

堀切A

堀切A

(虎口を抜けると曲輪Ⅰに出た)
曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

(曲輪Ⅵ)
曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

(曲輪Ⅰから北を望む)
北を望む

(城の北西にある館跡。私有地のようだったので入らなかった)
館跡

感想:城の歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』を参考にしてください。

(縄張図)
縄張図



出雲三笠山城(尼子十砦の一つ)

●出雲三笠山城
住所:島根県安来市広瀬町広瀬
標高:250メートル/比高:199メートル

 尼子十砦の一つ。山中鹿介が当城にかかる三日月に「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と祈念したことで知られる。

(Ⅰの曲輪群。この辺りは毛利元就が月山富田城を攻めた際に造築したといわれる。当城では唯一の石垣もある)
Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

(Ⅱの斜面)
Ⅱの斜面

Ⅱの斜面

Ⅱの斜面

Ⅱの斜面

(Ⅲの曲輪群)
Ⅲの曲輪群

Ⅲの曲輪群

Ⅲの曲輪群

Ⅲの曲輪群

Ⅲの曲輪群

Ⅲの曲輪群

(Ⅳの曲輪群)
Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

(Ⅴの曲輪群)
Ⅳの曲輪群

(Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群)
Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

Ⅵ、Ⅶ、Ⅷの曲輪群

(麓から月山富田城方面を望む。眼下の造成地や体育館も城域だったという)
月山富田城

感想:縄張図とルートマップを見ながら歩きましたが、縄張図の番号と写真の遺構が一致していない箇所があるかもしません。
 GoogleMapで西から戻る時に下山ルートに気付かず必ずこちらに進んでしまうので気を付けて下さい。
 歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』を参考にしてください。

(縄張図)
縄張図