阿太加夜神社(ホーランエンヤに関連した神社)

●阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)
住所:島根県松江市東出雲町出雲郷587(字 芦高)
駐車場:あり

 主祭神は大国主命の御子・阿陀加夜奴志多岐喜比賣命。創建年代は不明だが出雲国風土記にも阿太加夜社として記載のある古社である。当地のある出雲郷はそのまま「いずもごう」と読まれていたが、阿太加夜神社があることから出雲郷を「あだかや」「あだかえ」と読むようになったという。
 戦国時代には何度も出雲郷(阿陀加江郷)が出てきており、文明6(1474)年に尼子経久が京極政高から郷内の青木・多祢等を安堵され、享禄3(1530)年には多胡氏が取り上げた郷内の隠田を平浜八幡宮に寄進した。天正9(1581)年、鳥取城に向かう吉川経家が吉川元春と「あたかい」で会っている。近世には芦高社や芦高大明神と呼ばれていたが、明治維新後に阿太加夜神社に改名した。
 10年に一度行われる松江城山稲荷神社と阿太加夜神社の間を神輿が船で往復する松江ホーランエンヤは日本三大船神事の一つで松江市の一大イベントになっている。

(鳥居)
鳥居

(参道)
参道

(随神門)
随神門

(参道と拝殿)
参道と拝殿

(拝殿)
拝殿

(幣殿と本殿)
幣殿と本殿

(神木)
神木

(稲荷神社)
稲荷神社

(兵庫神社。堀尾氏の松江城築城の際、一箇所で何度も石垣が崩れたため松岡兵庫頭が地鎮祭を行ったところ積み上げることができた。後年、兵庫頭が祀られたのが兵庫神社である)
兵庫神社

(雨風神社)
雨風神社

(ホーランエンヤで使用されるであろう船が境内にあった)
船

(日清・日露戦争に従軍した出雲郷出身の軍人を讃えた表忠碑。昭和3(1928)年に建てられた)
表忠碑

(神社の西を流れる意宇川に河童がいたという。橋は河童橋と名付けられている。河童の頭石に水をかけると災難から逃れられるという)
河童

河童

河童

河童

(国引きの碑。神社から数百メートルの場所で国引き神話の締めが行われた。神話の内容を書くと長くなるので省略)
国引きの碑

(令和元(2019)年に行われた大橋川でのホーランエンヤの様子)
ホーランエンヤ

ホーランエンヤ

ホーランエンヤ

ホーランエンヤ

参考文献:明治神社誌料:府県郷社 中、島根県の地名、出雲尼子史料集 上巻、新鳥取県史資料編古代中世Ⅰ 古文書編下巻

感想:神社もいいのですが、やはりホーランエンヤは勇壮で一生に一度は見ておきたい船神事です。次回の2029年も見に行く予定です。



出雲 花栗城(多賀山氏の一族・花栗弥兵衛の居城)

●出雲 花栗城
住所:島根県飯石郡飯南町花栗
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、(横堀、堀切、竪堀)
標高:491メートル/比高:59メートル

 築城年代・築城者は不明。西に花栗川(現・八重山川)が流れ、現在の国道54号線と同じように陰陽を結ぶ出雲備後街道が近くを通っていた。明応年間(1492~1501年)頃、備後の蔀山城(広島県庄原市)を本拠地とする多賀山通広が当地に進出し、通広の弟・弥兵衛が花栗城を居城として花栗氏を名乗った。
 永正11年(1514)、花栗弥兵衛は反旗を翻し兄の多賀山多賀山通広と甥の又四郎通時の父子を討ち取る。翌年の永正12年(1515年)、花栗弥兵衛は花栗城に戻る途中で通広の旧臣・井上八郎右衛門と檜木谷(庄原市高野町)で刺し違え絶命した。多賀山氏の家督は落ち延びていた通広の次男・多賀山通続が継ぐ。
 多賀山氏が内紛で当地での力を失うと、多賀山氏以前に支配していたと思われる佐波氏(現在の邑南町の辺りを支配していた石見の領主)が尼子氏の力を借りて再び進出し花栗城には花栗山城守盛□(佐波氏一族が姓を変えたか)が入る。永禄5(1562)年頃、毛利元就が出雲に侵攻してくると主家の佐波隆秀は元就についたが、山城守は尼子氏についたため隆秀の軍勢によって滅ぼされた。その後、隆秀の意を受けた花栗遠江守連親が城主となっているが、その後は不明である。

(全景)
全景

(伝・花栗弥兵衛の墓)
花栗弥兵衛の墓

(『頓原町の遺蹟』にある縄張図には南側に多数の曲輪と空堀が載っているが、ほとんどが奥出雲地区で盛んに行われていた鉄穴流し(かんなながし)の跡らしい。これはこれで近世の史跡ではある。削平地も城の遺構なのか不明)
鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

鉄穴流し

(北側に複数の曲輪があったが、これが城の遺構に思えた。鉄穴流しに削られて尾根のようになっているが本来はもっと広かったと思われる。ここだけ独立して周りが斜面になっており城の縄張としては最適な場所だった)
北側に複数の曲輪

北側に複数の曲輪

北側に複数の曲輪

北側に複数の曲輪

参考文献:島根県の地名、島根県中近世城館跡分布調査報告書 出雲の城館跡、頓原町誌 歴史

感想:本文でも書きましたが出雲の山城はお隣の石見や毛利氏進出後と比べて曲輪が複数あるだけの簡単なものが多く、ここも北側だけの可能性が高いと思っています。同行された山城の専門家の方々は別の意見をお持ちだったようですが、現状は結論が出せないです。
 複数の地権者がいる山で普段は立入禁止です。特別に許可をもらって入りました。許可無く入って地権者に見つかり「ネットに載っているから入れると思った」とかそういう理屈は通じませんので気を付けて下さい。



雲竜山蓮光寺(瀬戸山城の石でできた石垣)

●雲竜山蓮光寺
住所:島根県飯石郡飯南町下赤名665
駐車場:無し
 浄土真宗。創建年代は不明だが、初代住職・明雲が千束村(同町下赤名千束)に創建したのが始まりだと伝わる。元和年間(1615~1623年)、赤名宿(同町赤穴)に移転したが、後年現在地に移転した。寺の石垣は天文11(1542)年に瀬戸山城が大内義隆軍に攻められた際、城兵が防戦のため投げ落とした石だと伝わっている。
 大正8(1919)年に町内の大火で焼失したが大正11(1522)年に再建された。

(本堂)
本堂

(石垣)
石垣

石垣

感想:『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。