隠岐判官屋敷跡(隠岐別府城。後醍醐天皇を見張るための館)

●隠岐判官屋敷跡(後醍醐天皇を見張るための館)
住所:島根県隠岐郡西ノ島町別府(字 西ノ上)
駐車場:なし
遺構:曲輪?
標高:38メートル/比高:37メートル

 元弘2(正慶元,1332)年、隠岐(佐々木)判官清高は隠岐の島に配流され黒木御所を御在所とした後醍醐天皇を見張るよう、鎌倉幕府の執権の北条氏から命を受けた。そこで清高は西ノ島に渡り、黒木御所の西にある高台を館として見張る。
 しかし、翌年になって後醍醐天皇は脱出し名和長年に助けられ、船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に立て籠もった。清高は汚名返上のため攻め手に加わるが敗北し、その後自害している。
 戦国時代になり、隠岐氏が隠岐全島を支配した際、当地に城を築いて中畑氏や中原氏などの家臣を置いて島前(西ノ島・中ノ島・知夫里島)を治めたという(『陰徳太平記』)。周囲には城と関係があると思われる「尾ノ代」「アラ堀」などの字名が残っている。
 当地の字名は「ニシイエ」「ニシノイエ」とも呼ばれており、「主の家(ヌシノイエ)」が訛ったものである。なお、発掘調査では中世の遺物は発見されず館跡の存在を示すものはなかった。

隠岐判官屋敷跡

参考文献:島根県の地名、黒木村誌、隠岐国黒木の遺跡、陰徳太平記、隠岐西郷町誌、黒木御所

感想:碑のあるところしか見ていないです。本文と重複しますが四段の平坦な場所があるらしいですが、削平したような様子ではないそうです。誰か確認してきて下さい。
 隠岐別府城は私が勝手に名前をつけました。


聞善寺(多賀山通定の嫡子が創建)

●聞善寺(ぶんぜんじ)
住所:島根県仁多郡奥出雲町亀嵩1594

 浄土真宗。日倉山城主・多賀山通定は尼子氏に仕えていたが、雲芸攻防戦の最中に毛利軍の攻撃を受け城は落ちた。しかし嫡子の鶴若丸は逃れ祐正と号し角木村(奥出雲町三所角木)に草庵を結び、のちに亀嵩玉峯山の山麓に照蔵坊を創建した。寛永2(1625)年、現在地に移転し聞善寺と改号する。
 通定は雲芸攻防戦の頃は毛利氏に味方して一族は尼子氏によって殺害されたというのが通説である。そのため、鶴若丸は尼子氏の粛清を逃れた者の可能性もある。

聞善寺

聞善寺

感想:『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。


佐々布要害山城(佐々布氏の居城)※縄張図あり

●佐々布要害山城
住所:島根県松江市宍道町佐々布(字 本郷、佐々布中)
駐車場:ふるさと森林公園の駐車場を利用
遺構:曲輪、土塁、掘切、枡形虎口
標高:126メートル/比高:90メートル

 中世の山陰道が眼下に通る場所に位置している。東と西にそれぞれ主郭があり通路で繋がっている。塩冶高貞が都から出雲に下った際、籠城しようとした城であるという伝承がある。
 出自が出雲国衙の在庁官人と考えられている佐々布氏の居城であり、鎌倉時代からこの地を支配し続けた。尼子氏が台頭するとその傘下に入り、毛利元就が出雲を支配するようになると、元就に従っていた宍道氏の配下となった。
 宍道氏の居城である金山要害山城と、支城の宍道要害山城との繋ぎの城としての性格を持っていたといわれている。

(ふるさと森林公園側から西郭群を目指す。場所は下の縄張図を参照)
ふるさと森林公園

(尾根の進むと土橋のような場所に出る)
土橋

土橋

土橋

(西の主郭の曲輪。土塁があった。陽の当たる箇所はご覧の通りの状況である)
西の主郭の曲輪

西の主郭の曲輪

西の主郭の曲輪

西の主郭の曲輪

西の主郭の曲輪

(東郭群)
東郭群

東郭群

東郭群

東郭群

参考文献:島根県の地名、出雲の山城

感想:家族連れが公園に行く中、山登りの格好をしていたので異様な者を見る目で見られました。
山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。

(縄張図。クリックすると新しいタブが開きます)
縄張図


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