●出雲 花栗城
住所:島根県飯石郡飯南町花栗
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、(横堀、堀切、竪堀)
標高:491メートル/比高:59メートル
築城年代・築城者は不明。西に花栗川(現・八重山川)が流れ、現在の国道54号線と同じように陰陽を結ぶ出雲備後街道が近くを通っていた。明応年間(1492~1501年)頃、備後の蔀山城(広島県庄原市)を本拠地とする多賀山通広が当地に進出し、通広の弟・弥兵衛が花栗城を居城として花栗氏を名乗った。
永正11年(1514)、花栗弥兵衛は反旗を翻し兄の多賀山多賀山通広と甥の又四郎通時の父子を討ち取る。翌年の永正12年(1515年)、花栗弥兵衛は花栗城に戻る途中で通広の旧臣・井上八郎右衛門と檜木谷(庄原市高野町)で刺し違え絶命した。多賀山氏の家督は落ち延びていた通広の次男・多賀山通続が継ぐ。
多賀山氏が内紛で当地での力を失うと、多賀山氏以前に支配していたと思われる佐波氏(現在の邑南町の辺りを支配していた石見の領主)が尼子氏の力を借りて再び進出し花栗城には花栗山城守盛□(佐波氏一族が姓を変えたか)が入る。永禄5(1562)年頃、毛利元就が出雲に侵攻してくると主家の佐波隆秀は元就についたが、山城守は尼子氏についたため隆秀の軍勢によって滅ぼされた。その後、隆秀の意を受けた花栗遠江守連親が城主となっているが、その後は不明である。
(『頓原町の遺蹟』にある縄張図には南側に多数の曲輪と空堀が載っているが、ほとんどが奥出雲地区で盛んに行われていた鉄穴流し(かんなながし)の跡らしい。これはこれで近世の史跡ではある。削平地も城の遺構なのか不明)
(北側に複数の曲輪があったが、これが城の遺構に思えた。鉄穴流しに削られて尾根のようになっているが本来はもっと広かったと思われる。ここだけ独立して周りが斜面になっており城の縄張としては最適な場所だった)
参考文献:島根県の地名、島根県中近世城館跡分布調査報告書 出雲の城館跡、頓原町誌 歴史
感想:本文でも書きましたが出雲の山城はお隣の石見や毛利氏進出後と比べて曲輪が複数あるだけの簡単なものが多く、ここも北側だけの可能性が高いと思っています。同行された山城の専門家の方々は別の意見をお持ちだったようですが、現状は結論が出せないです。
複数の地権者がいる山で普段は立入禁止です。特別に許可をもらって入りました。許可無く入って地権者に見つかり「ネットに載っているから入れると思った」とかそういう理屈は通じませんので気を付けて下さい。