筑後守 について

過去の著書 ○もっと知りたい! 長宗我部元親 ○戦国武将の意外な関係 ○「戦国合戦」 意外・驚きエピソード ○大坂の陣・なるほど人物事典

土佐本在家城(仁井田五人衆の一人・東氏の居城)

●土佐本在家城
住所:高知県高岡郡四万十町七里
駐車場:なし
遺構:曲輪、畦状竪堀群、堀切、土塁
標高:330メートル/比高:106メートル

 東谷山の山頂にあり野口城とも呼ばれる。城主は東氏と伝わり影山城主西氏と同族で、七里地区の東の本在家村に城を構えたので東氏、西の影山村に城を構えたので西氏と呼ばれたと思われる。四万十川上流の高南台地を中心とした地域は仁井田郷(仁井田庄)と呼ばれ、当地を治めた有力な五つの家を仁井田五人衆と呼び東氏もその一つだった。東氏は津野氏、土佐一条氏、長宗我部元親に仕えたが、当主が朝鮮出兵で戦死や元親への謀叛で討たれるなど悲劇が続き断絶している。

(南から登って行くと南端の曲輪に出る)
南端の曲輪

(その北には二重の堀切)
二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

(更に北にある高知県ではお馴染みの畦状竪堀群。写真は中心の城域の南のもの)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(上記の中心の城域の南と西の畦状竪堀群の間にある堀切)
間にある堀切

(中心の城域の西の畦状竪堀群)
西の畦状竪堀群

西の畦状竪堀群

西の畦状竪堀群

(中心の城域の一番南の曲輪)
南の曲輪

南の曲輪

(上記の北にある曲輪。二の段らしい)
二の段

(二の段の北にある曲輪)
二の段の北にある曲輪

(上記と主郭の間にある堀切。写真では伝わらないが、かなりの大きさだった)
主郭の間にある堀切

主郭の間にある堀切

主郭の間にある堀切

(主郭。土塁があった)
主郭

主郭

主郭

(北端の曲輪)
北端の曲輪

北端の曲輪

(北東の堀切と曲輪)
北東の堀切と曲輪

北東の堀切と曲輪

北東の堀切と曲輪

北東の堀切と曲輪

北東の堀切と曲輪

(北西の曲輪。こちらは遺構がよく分からなかった)
北西の曲輪

参考文献:高知県の地名、窪川町史、土佐の山城

感想:車を駐める場所がなくて難儀しました。



浄土寺(足利尊氏の供養塔)

●浄土寺(尾道市)
住所:広島県尾道市東久保町20-28
駐車場:境内の東側に駐車許可スペースあり

 真言宗。推古天皇24(616)年、聖徳太子が創建したと伝わる。鎌倉時代には荒廃したが、永仁6(1298)に西大寺の叡尊の弟子・定証が一夜を過ごした際、住民の願いにより当寺に移って再興を発願し尾道浦の豪商・光阿の財力などを借りて実現した。正中2(1325)年に伽藍が全焼したが、尾道浦の道蓮・道性夫婦が大願主となり資材を集め、貞和元(興国66、1345)年に大半が再興している。
 南北朝時代には両勢力から対岸の因島地頭職が与えられるなど重要視されたが、室町幕府や守護の山名氏の力が衰えると在地領主の杉原氏・宮氏・山内氏・小早川氏などに寺領を荒らされ収入が減少した。毛利氏が備後を抑えると収入も安定したが、関ヶ原の戦い後に備後を支配した福島氏によって寺領を没収され、続いて浅野氏が備後を支配すると僅かながらの寺領を与えられるのみになる。そこで尾道の豪商などが檀那となって存続した。
 多くの伽藍や本尊の木造十一面観音立像などの寺宝が県や国の文化財に指定されている。

(駐車場になっている場所のそばに建つ鎮守神の丹生神社)
丹生神社

丹生神社

(子安堂)
子安堂

(向かって左が足利尊氏の供養塔で右が足利直義の供養塔。九州に落ち延びる途中の尊氏が当寺で戦勝祈願を行い九州で菊池武敏に勝利し、上洛の際にも再び戦勝祈願をして楠木正成を破っている)
供養塔

(多宝塔と阿弥陀堂)
多宝塔

多宝塔

阿弥陀堂

(本堂)
本堂

(山門と、そこから見た瀬戸内海方面。2号線との間には山陽本線が走っている)
山門

瀬戸内海方面

(痛風などに効能がある観音霊泉)
観音霊泉

感想:尾道なので幅の狭い坂を登っていかないといけないことから車で行くのに苦労しました。



宇津戸の境界石(領家と地頭の領地の境界)

●宇津戸の境界石
住所:広島県世羅郡世羅町宇津戸
駐車場:不明

 海裏荘(うつとのしょう。現在の世羅町宇津戸)を領家と地頭が争っていたが、延慶2(1309)年に中分(人々が和解するために、中間をとって妥協しあうこと。また、その方法で第三者が仲裁をすること。特に鎌倉・室町時代には、所領争いの際に係争物を二分して、当事者双方に与える方法が多くとられた。また、当事者どうしの私的な和解の方法としても用いられた)が行われた。
 これには伝説があり、争っている両者に対してより上位の権力者が「境界線が分からない場合は役を取り上げる」と脅したことから、どうしてよいか分からなくなった両者が神に祈ったところ神の使いである二頭の白鹿が走り抜け、そこが境界線になったという。
 その境界線の目印となったのが境界石で、他にもあったと思われるがここだけが現存している。

境界石

参考文献:はしだ製餡所の公式サイト、広島県の地名

感想:世羅町の企画(山城探訪)に参加して通り過ぎた際、説明を受けました。


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