筑後守 について

過去の著書 ○もっと知りたい! 長宗我部元親 ○戦国武将の意外な関係 ○「戦国合戦」 意外・驚きエピソード ○大坂の陣・なるほど人物事典

築山五輪塔(名和川周辺の土地改良記念)

●築山五輪塔
住所:鳥取県西伯郡大山町御来屋(字 築山ノ下?)
駐車場:なし

 宝徳年間(1449~51年)、名和川(当時は稲川)は現在より約100メートル東を流れていたが、洪水防止と田地の開発を目的に、川の流れを真っ直ぐにする工事が計画された。工事は成功し、土地改良の記念と、工事中に亡くなった住民の供養を兼ねて五輪塔が建立されたと伝えられる。現代の土地改良碑のようなものであろう。この五輪塔は昭和時代の初め頃までは存在していたが、いつしか所在が分からなくなってしまった。
 平成3(1991)年、名和神社から名和川橋梁を結ぶ道路の建設が始まる。その工事中に五輪塔の一部が発見され、宝徳年間の五輪塔であると考えられた。そして平成4(1992)年に再建される。

(五輪塔。昔は地元で大切にされていたようだが現在は荒れている)
五輪塔

(道と五輪塔。向かって右が古代の道と考えられている馬郡で、左が工事でできた道)
道と五輪塔

(名和川)
名和川

(向かって右の丘が通称「お満さん山」で、その下を名和川が流れていたらしい)
お満さん山

(「お満さん」と呼ばれる元になっている御満稲荷神社。地元では漁師の方に信仰されているようだ)
御満稲荷神社

御満稲荷神社

(現在の航空写真)
航空写真

(昭和59(1984)年の地図。まだ名和神社から名和橋の道がない)
昭和59(1984)年の地図

参考文献:ふるさとを探ろう第二集、名和町誌

感想:築山五輪塔は私が勝手に付けた名前です。



日向 佐土原城(伊東義祐の隠居城。島津義久の日向支配の拠点)

●日向 佐土原城
住所:宮崎県宮崎市佐土原町上田島
駐車場:あり
遺構:曲輪、竪堀、虎口、土塁
標高:73メートル/比高:64メートル

 国指定史跡。鎌倉時代に伊東祐時の子・祐明が田島に下向した頃に築城されたと言われているが、その真偽は不明である。応永34(1427)年、本家の伊東氏が田島氏を滅ぼして入城した。永禄11(1568)年頃、伊東義祐の隠居城となり、息子の義益が都於郡城を居城としている。
 天正5(1577)年、島津義久の攻勢に耐えかねた伊東義祐は佐土原城を去り、豊後の大友宗麟を頼って落ち延びた。天正6(1578)年の高城・耳川の戦いでは島津義久が入城し、根白坂に向かっている。戦後、義久の弟・島津家久が入り、日向支配の拠点となった。
 天正15(1587)年、豊臣秀吉が九州攻めを開始すると、豊後から豊臣秀長の軍勢が日向に攻め込み佐土原城も包囲される。やがて島津義久が秀吉に降伏すると包囲が解かれるが、その直後に家久が死亡。息子の豊久が跡を継いだ。
 慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで豊久が戦死し宮崎城を落とした伊東軍が佐土原城を攻めようとしたが、攻め込まれる前に終戦となっている。その後、一時的に徳川家康の直轄地となるが、交渉の結果、慶長8(1603)年に島津以久が佐土原領を継ぐことになり佐土原藩が成立した。
 寛永2(1625)年、以久の息子の忠興は広大な佐土原城の管理に困難を感じ二の丸に藩庁を移す。以降、御家騒動などはあったが明治維新まで島津家が佐土原城の城主であった。

(二の丸跡に建つ宮崎市佐土原歴史資料館。年末に行ったので閉まっていました)
宮崎市佐土原歴史資料館

(下の縄張図の東にある大手道を通ってⅥの曲輪を目指す。一人ずつしか進めず狭いため前や左右から敵に攻撃されたら、たまらんかったと思う。土砂崩れの修復でブルーシートや立入禁止箇所が各所にあった)
大手道

大手道

大手道

大手道

(Ⅵの曲輪)
Ⅵの曲輪

Ⅵの曲輪

(Ⅷの曲輪(松尾丸)を目指すが、ここだけ荒れていた。入り口には何もなかったが、もしかして立入禁止区域だったかもしれない。道にイノシシの糞があった。遺構は竪堀や虎口があった)
Ⅷの曲輪(松尾丸)

Ⅷの曲輪(松尾丸)

Ⅷの曲輪(松尾丸)

Ⅷの曲輪(松尾丸)

Ⅷの曲輪(松尾丸)

(Ⅷの曲輪)
Ⅷの曲輪

Ⅷの曲輪

(ⅤとⅥの曲輪の間にある掘切)
掘切

掘切

(御殿のあったⅤの曲輪(南の城)は土砂崩れで立入禁止になっていた)
Ⅴの曲輪(南の城)

(曲輪Ⅰの東にある曲輪)
東にある曲輪

東にある曲輪

(曲輪Ⅰの入口にある虎口)
虎口

(曲輪Ⅰ(本丸)。北西には天満宮があったようだが・・・)
曲輪Ⅰ(本丸)

曲輪Ⅰ(本丸)

曲輪Ⅰ(本丸)

曲輪Ⅰ(本丸)

曲輪Ⅰ(本丸)

(曲輪Ⅱ。天守台があったらしい)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(曲輪Ⅲ)
曲輪Ⅲ

(曲輪Ⅰ、Ⅱの東にある曲輪群の手前側)
手前側

(上記から東に進むと中の道に出る。虎口にあった門跡には人工的に彫られた穴があった)
中の道

中の道

中の道

中の道

(中の道を進むと佐土原出土文化財管理センターに出る。今は閉鎖しているらしい)
佐土原出土文化財管理センター

(麓には代官所跡などがあった)
麓

麓

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、宮崎県の歴史散歩、みやざき文化財情報、国史跡佐土原城跡パンフレット

感想:他の目的地から離れており行かないつもりでしたが、時間ができたので寄りました。寄っておいて良かったです。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


日向 須木城(鶴丸城。肥後との国境にある要衝)

●日向 須木城(鶴丸城)
住所:宮崎県小林市須木下田(字 唐池)
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、石垣、空堀、虎口
標高:402メートル/比高:35メートル

 肥後との国境に近い位置にあった。東の綾南ダムができる以前は、東西と北を本庄川が流れ、天然の濠の役割を果たしていた。肥田木城、庚申(荒神)城、松尾城、名のない四つの区画があり、総称して須木城と呼ばれている。
 築城年代は不明。南北朝時代、肝付兼重が三股院高城(月山日和城)から逃げて籠もっており、その頃にはすでに存在していた。戦国時代には伊東四十八城の一つとなり伊東家の家臣・米良一族が須木郷の領主となっている。天文年間(1532~55)頃には米良尾張守が須木郷から野々美谷城に移り、永禄10(1567)年頃には米良筑後守が小林城に入り、須木郷の支配は筑後守の甥の米良長門守が任された。
 元亀元(1570)年、肥後の相良氏が伊東氏に味方して須木要害(須木城のことと思われる)に来たという噂が島津義弘の耳に届いている。元亀4(1573)年には米良筑後守の弟の米良美濃が須木の領主となっていたが、伊東義祐によって領地の一部を取り上げられたため、島津義弘に寝返った。その後、再び伊東義祐の領地に戻ったようだが、天正4(1576)年に高原城が落ちると須木城も放棄され、島津家の宮原筑前守が入城している。
 廃城の時期は不明だが、その後も須木郷は島津家(薩摩藩)の領地として肥後の人吉藩などとの境(八方境)として重視された。

(肥田木城。場所は下の縄張図を参照。この先に、ままこ滝展望所があったのだが道が崩れて通行止めになっていた。城は曲輪があるだけの単純な構造に見えたが、防御が厳重な詰めの城らしい)
肥田木城

肥田木城

肥田木城

肥田木城

(肥田木城と庚申城の間にある空堀)
空堀

空堀

(庚申城。土塁と虎口があった。土塁の横にあったのが荒神さんかな)

庚申城

庚申城

庚申城

庚申城

庚申城

庚申城

(庚申城と松尾城の間にある空堀)
空堀

(城址碑)
城址碑

(松尾城の南の二つの曲輪。この城は普段、居住するための場所らしい。曲輪の一角が駐車場になっていた。土塁があった)
松尾城の南の二つの曲輪

松尾城の南の二つの曲輪

松尾城の南の二つの曲輪

(松尾城の北の二つの曲輪。城のメインで曲輪と石垣があった)
北の二つの曲輪

北の二つの曲輪

北の二つの曲輪

北の二つの曲輪

北の二つの曲輪

北の二つの曲輪

北の二つの曲輪

(南東にある名無しの城。ここにも土塁があった)
名無しの城

名無しの城

名無しの城

名無しの城

名無しの城

名無しの城

(昭和22(1947)年12月5日の須木下田地区の航空写真。中央が須木城で庄内川が西から北を通って東に流れているのが分かる)
航空写真

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編

感想:空堀に圧倒されました。地元の城に詳しい方に「宮崎県の城では独立した曲輪は城という」と教えてもらいました。実際に他の宮崎県の城でも一つの城に○○城がいくつもありました。
 西に500メートルほど行った一麟寺跡に木崎原の戦いで亡くなった米良筑後守重方の墓があり、首桶が須木総合ふるさとセンターで展示されているそうです。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について