●出雲 加賀要害山城(尼子再興戦で毛利軍が利用)
住所:島根県松江市島根町加賀
遺構:曲輪
標高:28メートル/比高:22メートル
永禄12(1569)年から始まった第一次尼子再興戦で毛利軍が築城(もしくは修築)した。
感想:再び整備されたら行こうと思っています。
城の歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』を参考にしてください。
●出雲 加賀要害山城(尼子再興戦で毛利軍が利用)
住所:島根県松江市島根町加賀
遺構:曲輪
標高:28メートル/比高:22メートル
永禄12(1569)年から始まった第一次尼子再興戦で毛利軍が築城(もしくは修築)した。
感想:再び整備されたら行こうと思っています。
城の歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』を参考にしてください。
●金龍山雲光寺
住所:鳥取県西伯郡南部町御内谷1205
曹洞宗。足利義満や小野小町などの位牌が安置されている。
(本堂。平成29(2017)年12月に火災で焼失したが再建された。一枚目が再建前、二枚目が再建後)
(観音堂。毎年、8月17日には戦国時代に寺の北東にあった小松城内で無礼講の盆踊りを催されていたのが始まりという小松谷盆踊(県無形民俗文化財)が行われる)
(雲光寺の墓地の片隅に建つ小松城主・小松氏ゆかりの五輪塔。最初は小松城の麓の竹藪にあったが西伯郡南部町の金田地区の民家の入口に移され、更に1990年以降に現在地に移転された。移転された経緯などは不明)
感想:歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』を参考にしてください。
●伯耆 小松城
住所:鳥取県西伯郡南部町金田(字 吹屋、城ノ越)
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、横堀、掘切
標高:62メートル/比高:28メートル
城の西を金田川(宮谷川)が流れ、北西で小松谷川と合流している。
建武3(延元元,1336)年6月30日、北朝の塩谷高貞に属した出雲国造の貞教(孝)が南朝方の籠もる小松城を攻め大手で合戦になっている(『千家文書』)。この時に籠もっていたのが小松城を居城としていた小松氏でこの戦いで攻め滅ぼされたと伝わるが『千家文書』には相手方の名前がない。奇しくも同日に伯耆の支配を後醍醐天皇から任されていた名和長年が京都で戦死している。
戦国時代は毛利家の家臣・馬場原氏が城主だったという。
(全景。中央の小山が小松城。向かって右手の辺りは字名が「土井(土居)」「荒神平」で屋敷、弓場、馬場があったと伝わる)
(北側。最初、曲輪かと思ったが公園として整備された場所のようだ)
(北側の曲輪(1)。場所は下にスクロールすると縄張図があるので、そちらを参照)
(曲輪(1)の東にある横堀の入口。枡形虎口のように見えるが、雨で陥没しただけかもしれない)
(横堀を出たBの辺り。ここで一回、自分がどこにいるのか分からなくなった)
(主郭。土塁が囲んでいる。調査の際、鉱滓(金属を溶融し精錬する時に出る、非金属性のかす)が見つかっている)
(Cの辺りの土塁の一部が削れていた。虎口なのか自然に崩れたのか不明だった)
(曲輪(4)の周辺。元々、出丸のようになっていたのか、Eの辺りが削られて残ったのかは不明。ここにも墓地があった)
参考文献:鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)、鳥取県の地名、伯耆・出雲郷土史跡めぐり、新鳥取県史資料編古代中世Ⅰ、現地の案内板
感想:SNSで遺構が見応えがあると知り近場なので行ってみました。写真では伝わりづらいですが東西を切っている大堀切が見事でした。
もう一つの目的は買い換えたD5600の撮影テストでした。