因幡 狗尸那城(狗屍那城。古仏谷の城。鹿野城の前身?)

●因幡 狗尸那城(狗屍那城。古仏谷の城)
住所:鳥取県鳥取市鹿野町鷲峯
駐車場:不明
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀
標高:352メートル/比高:260メートル

 当地区は16世紀まで譲伝寺の前身・抱月寺があったためか古仏谷と呼ばれている。明徳2(元中8,1391)年の明徳の乱で敗れ亡くなった山名満幸の三男・三重郎幸康が家臣に連れられ鷲峯山に隠れ住み、12歳になった1402(応永9)年に築いたという。やがて幸康の後裔は陸上村(岩美町陸上)に移り住むが、狗尸那城には山名弾正(幸康の一族との関係は不明)が残り守備する。『因幡誌』には弾正が小畑高尾城主・嶋崎氏と戦って互いに消耗していたところを亀井茲矩に攻められ落城したとある。その後、茲矩が狗尸那城と名付けた。
 鳥取県埋蔵文化財センターなどの調査によると狗尸那城は茲矩が築いた現在の鹿野城の前身・鹿野古城ではないか、尼子再興戦や織田・毛利戦争において荒神山城勝山城などに対峙するための城だったのはないか、などの説がある。鹿野から三朝町の三徳山方面に抜ける道の近くにあることから重要な場所だったことは間違いない。
 近世になると古仏谷が鳥取藩の山林を管理する御山奉行が居住地となり、鷲峯村と鷲峯神社の飛び地の領地との境にあったことから藩の関係者以外は入山禁止となった。そのため『因幡誌』の編者で医者の阿陪恭庵は入れなかったため詳細な情報を得られなかったが、藩が主導した『因伯古城跡図志』には詳細な記載がある。

(山道を歩いていると出てくる曲輪群1とその先にある堀切A。場所については下の縄張図を参照)
曲輪群1

(堀切B)
堀切B

堀切B

(曲輪2。主郭だろう)
曲輪2

曲輪2

(Cの竪堀群と横堀群)
Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

(Dの箇所。竪堀に見えたが何なのか良く分からなかった)
Dの箇所

参考文献:鳥取県の地名、鳥取県中世城館分布調査報告書第1集(因幡編)、因幡誌 卷六 (因伯叢書) 、わたくしたちの鹿野、戦国の因幡武田と鹿野城

感想:鳥取県内では近年、一番話題になった城ではないでしょうか。
 ここで教えてもらいながら縄張図を初めて描いたのですが、それっきり描いてないです。せっかく教えてもらったので活かさないと、と思いながら数年が経っています。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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三味山一行寺(山名時氏の供養塔)

●三味山一行寺
住所:鳥取県鳥取市戎町202
駐車場:不明

 浄土宗。西宗寺として鳥取市田島に創建され、天正5(1577)年に鳥取市栗谷町に移され現在の寺号に改められた。寛永9(1632)年(慶安3(1650)年とも)、現在地に移転する。江戸時代中期には遊行上人の宿舎となった。
 境内には応安4(1371)年2月28日の紀年銘のある宝篋印塔の一部があり、「因州太守孝子 源氏重造立」「右為鎮国静公 大禅定門寿塔」と刻んであるという。これは山名時氏の供養塔として子の因幡守護・氏重が建てたと考えられている。

(山門)
山門

山門

山門

(本堂)
本堂

(山名時氏の供養塔? 事情があってモザイクをかけています)
山名時氏の供養塔?

感想:ここには書けませんが、いろんな偶然の出逢いがあったお寺でした。



武田高信の妻の墓(若宮さん)

●武田高信の妻の墓(若宮さん)
住所:鳥取県鳥取市有富
駐車場:なし

 天正4(1576)年、山名豊国によって武田高信が誅されると高信の妻は松上神社の神主を頼るため高草郡荒神谷村(鳥取市有富)まで逃げ延び村人の倉庫に隠れた。しかし村人達は話し合いの結果、後難を恐れて妻の命乞いも聞かず殺害し衣服を剥ぎ取って埋めている。その際、妻は死に際に恨みの言葉を残した。
「この恨み長くお前達の子孫に祟り貧窮させ、倉庫を建てる者がいたら焼き殺す」
 それから里に怪奇現象が起きたため埋めた場所で供養を行い、のちに祝い若宮として崇めている。若宮とは激しく祟る無縁の霊を斎(いわ)い込めるために、大きな神格の支配下において祀り始めたもので、『民俗学辞典』によると供養祭を怠ると直ちに祟ることがあるという。

(入口)
入口

(若宮さん。手前にある「秀忠 勝之進之霊位」は昭和時代に建てられたもの。後ろの地蔵が供養を行った際に建てられたもののようで、その時は多数の卒塔婆が建てられたことから当地は卒塔婆谷と呼ばれるようになったという)
若宮さん

参考文献:鳥取県の地名、千代水村誌、日本民俗学辞典 [本編]、鳥取県史 第2巻 (中世)、因幡誌 卷四

感想:荒神谷村は祟りを恐れて近世初期まで倉庫を建てなかったそうですが、因幡志が書かれた寛政年間(1789~1801年)頃には既にその風習はなく村に倉庫が建てられていたそうです。
 現地の方に場所を尋ねた際「竹野…信高…だっけ?」みたいなことを言われました。一部の方を除いて若宮さんが忘れられているようなので、再び祟りが起きないか心配です。