霊石亀石(秀吉の因幡攻めで戦死した武将最期の地)

●霊石亀石
住所:鳥取県八頭郡八頭町池田
駐車場:中山展望台の駐車場を利用

 巨石の形が亀に似ていることから亀石と呼ばれている。天正8~9(1580~81)年の羽柴秀吉による因幡攻めの際、落武者や近在の寺の衆徒三千人が中山や霊石山などに立て籠もった。秀吉に付けられていた織田信長の家臣・堀久太郎秀政の二千がここを攻めたが激しい抵抗にあったため、山の背後に火を放ち建物を焼失させ落としている。敗れた武将たちは亀石の前で最期を迎えたと伝わる。
 以前は南に300メートルほどの雑木林の中にあったが県道開通により当地に移された。

(全景)
全景

(亀石)
亀石

亀石

亀石

(展望台から鳥取市河原町方面を望む)
景色

感想:近くの最勝寺城にも同じ伝承があり、実際に何らかの戦いがあったようです。





太閤ヶ平(羽柴秀吉の陣跡)

●太閤ヶ平
住所:鳥取県鳥取市東町2丁目

 天正9(1581)年、羽柴秀吉の第二次鳥取城攻めの際に本陣とするため鳥取城の北東にあるこの山に築かれた。

(鳥取東照宮の参道の横からの入口。熊注意の看板がある)
入口

(登山道途中にある的場の陣所と大休の辺りの曲輪)
曲輪

曲輪

曲輪

曲輪

曲輪

(下の縄張図のⅠの曲輪群)
Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

(Ⅱの曲輪群)
Ⅱの曲輪群

Ⅱの曲輪群

Ⅱの曲輪群

Ⅱの曲輪群

Ⅱの曲輪群

Ⅱの曲輪群

Ⅱの曲輪群

(本陣の外側の曲輪と土塁)
本陣の外側

本陣の外側

本陣の外側

(本陣。上記のように土塁と堀で囲われている)
本陣

本陣

本陣

本陣

本陣

本陣

本陣

本陣

(本陣の北西にある櫓台跡)
櫓台跡

櫓台跡

櫓台跡

(本陣の東の広い曲輪)
東の広い曲輪

東の広い曲輪

(本陣付近から鳥取城と湖山池を望む)
鳥取城と湖山池

(Ⅲの曲輪群。危険なため入っていない)
Ⅲの曲輪群

Ⅲの曲輪群

(Ⅳの曲輪群。前日の雨でぬかるんでおり何度か滑った)
Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

(北の展望台から見た鳥取市内。中央にあるのが丸山城なのは分かるが、左手前は雁金城か?)
鳥取市内

(羽柴秀長陣所の東側。細長い尾根状の曲輪が続く)
羽柴秀長陣所

羽柴秀長陣所

羽柴秀長陣所

羽柴秀長陣所

羽柴秀長陣所

羽柴秀長陣所

羽柴秀長陣所

羽柴秀長陣所

(秀長陣所の主郭部)
主郭部

主郭部

主郭部

主郭部

主郭部

(秀長陣所の主郭部の北西に続く曲輪。ここを下って遺構を見ようとした際、ガサガサと動物が移動する音が聞こえたので急いで逃げた)
北西に続く曲輪

(秀長陣所の主郭部の南にある二重の堀切)
二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

感想:ルートマップを見てもらえば分かりますが、途中で円護寺方面に行きかけてGPSで間違いに気づき引き返しました。他にも分かれ道がいくつもあり迷いやすいので自分の位置を確認しながら進んだ方がいいです。
 歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』を参考にしてください。

(縄張図)
縄張図





名和瀧不動明王(不動さんの火渡り)

●名和瀧不動明王
住所:鳥取県西伯郡大山町加茂
駐車場:なし

 明治29(1896)年、当地で疫病が流行った際に勧請されたと伝わり地元の大峯行者によって管理されていた。毎年、8月18日(戦前は七夕)に大峯行者による火渡り護摩(不動さんの火渡り)が行われていた。火渡り護摩では、堂の前に注連が張られ、東西南北と正面に五大明王を勧請する。この神域には杉の葉と松の割木が敷き詰めてあり、行者が短刀を使って加持祈祷し点火。行者はその火の上を歩いて渡り、その後、参拝者・信者も渡るというものだった。

(参道)
参道

(全景)
全景

(不動堂? ○に瀧のマークがおしゃれ)
不動堂

(名和瀧)
不動堂

(近くに建っていた金比羅大権現の常夜灯)
金比羅大権現の常夜灯

(近所にあった漁船。今は荷物置き場になっているようだ)
漁船

参考文献:鳥取県文化観光事典、とっとりデジタルコレクション

感想:現在も火渡り護摩が行われているかは不明です。