赤猪岩神社(大国主の蘇生伝説の地)

●赤猪岩神社
住所:鳥取県西伯郡南部町寺内232(字 久清)
駐車場:あり

 祭神は大穴牟遅命(大国主命)など。美人の八上比売が大国主を選んだことに嫉妬した兄弟達は大国主を手間山の麓に連れて行き「山に赤い猪がいるから我々が追い落とす。それを下で捕まえろ。出来なければ殺す」と脅した。
 兄弟達は猪に似た形の岩を焼き真っ赤にして落とし、それを受け止めた大国主は焼け死んでしまう。嘆き悲しんだ大国主の母・刺国若比売が神産巣日に訴えたところ、神産巣日は二人の神を使わした。二神は貝殻で大国主の体を岩から剥がして貝殻を削った粉を清水で練って塗ると大国主が生き返ったという。
 上記の神話から蘇生・再生・復興の御利益がある神社として知られる。大正6(1917)年に久清神社を当地に遷し、大正11(1922)年に手間山(手間要害山)にあった赤猪神社も当地に移して合祀し赤猪岩神社と改称した。

(鳥居)
鳥居

鳥居

(拝殿)
拝殿

(大国主大神御遭難地の碑)
大国主大神御遭難地の碑

(本殿)
本殿

(末社? 何を祀っているのか不明)
末社

(大国主命が抱いて落命した大岩と伝わる)
大岩

(手間山の山頂にある赤猪神社の鳥居の跡)
赤猪神社の鳥居

参考文献:鳥取県の地名、現地の案内板、南部町役場、鳥取県神社誌

感想:大きな神社ではないですが駐車場も広く人気のある神社です。



赤崎台場跡(鳥取藩の築いた台場の一つ)

●赤崎台場跡
住所:鳥取県東伯郡琴浦町赤碕(字 ヲナガケ)
駐車場:不明

 国指定史跡。文久3(1863)年、大阪の天保山砲台を警固していた鳥取藩士が英国船を砲撃。報復を恐れた鳥取藩は菊港や藩倉の防備のため、武信佐五右衛門(のちに佐伯友光と交代)を責任者に任命して築造した。当時の鳥取藩は財政難だったため大庄屋の河本家や地元の農民の協力で築かれている。鉄砲十二斤砲一門、御銘入鉄造五寸径砲一門、鉄砲三斤砲一門が配備され34名が警備に当たったが実戦を経験しないまま役目を終えた。
 長い間良好な状態で残っていたが、昭和33(1958)年から始まった国道9号の工事の残土で埋め立てられる。他の鳥取藩の台場と違い半円形だったことが分かっている。

(台場全景。この下に今も良好な状態で埋まっている)
赤崎台場

赤崎台場

赤崎台場

赤崎台場

(日本海)
日本海

参考文献:現地の案内板、とっとり文化財ナビ琴浦町公式サイト、日本城郭大系 第14巻、赤碕町郷土誌

感想:台場の名前は赤”崎”で地名は赤”碕”だそうです。花見潟墓地も近く、たまに散歩に来ています。



橋津台場跡(鳥取藩の築いた台場の一つ)

●橋津台場跡
住所:鳥取県東伯郡湯梨浜町長瀬
駐車場:あり

 国指定史跡。橋津川の西の海岸沿いにあり日本海に浸食され北側が消失しているいる。
 幕末、外国船が日本近海に現れるようになったため鳥取藩も防備を固めるため台場を築こうとした。しかし財政難のため計画が進まない。文久3(1863)年、大阪の天保山砲台を警固していた鳥取藩士が英国船を砲撃。報復を恐れた鳥取藩は吉村又兵衛らを責任者として橋津台場を築き、六尾反射炉(鳥取県東伯郡北栄町六尾)で製造された18斤砲、6斤砲、3斤砲、5寸径砲各1門の大砲が備え付けた。
 長瀬の大庄屋・戸崎久右衛門ら10名が取締役となって総勢141名が守備にあたる。明治4(1871)年、明治政府が封印したことにより実戦を経験しないまま役目を終えた。現在は橋津お台場公園として整備されている。

(幕末、因幡二十士が橋津から脱出して長州に向かったのを記念して建てられたらしいが来航と刻んであるから美保関から戻ってきた時のことだろうか。幕末に詳しくないから分からん)
因幡二十士

(東側の土塁)
東側の土塁

(日本海と台場。日本海によって台場の1/3が浸食されたらしい)
日本海と台場

日本海と台場

(その後、いろんな場所の土塁を撮影)
土塁

土塁

土塁

土塁

土塁

参考文献:鳥取県の地名、現地の案内板、とっとり文化財ナビ

感想:北側以外は土塁が良好な状態で残っています。さすが台場王国・鳥取県。