山伏松跡(赤碕の山伏伝説)

●山伏松跡
住所:鳥取県東伯郡琴浦町赤碕1193-1(字 八幡山)
駐車場:あり

 赤碕村の八幡坂には高さ24メートル、太さが6メートル強の樹齢400年と思われる大松があった。近世、他国から来た山伏は必ず(赤碕村の住民に?)挨拶をしなければならないという習慣があったにも関わらず、ある時挨拶をしない山伏が村に滞在していたため松の下で殺されている。それから山伏松と呼ばれるようになった。
 第二次世界大戦中、軍用のため伐採されてしまう。だが令和元(2019)年、地元の有志によって二代目の松が植えられた。

(駐車場)
駐車場

(二代目の松)
二代目の松

(発菩堤心の碑。現地の案内板には「この碑から推測するに修験道の修行を発心した山伏が松の下に庵を結び修行に励んだに相違ない(意訳)」とあった)
発菩堤心の碑

参考文献:赤碕町郷土誌、現地の案内板

感想:散歩をしていたら、たまたま見つけて寄ってみました。



くじら橋(御来屋の処刑場跡)

●くじら橋(御来屋の処刑場跡)
住所:鳥取県西伯郡大山町名和、西坪(字 下大谷、字 別所谷)
駐車場:なし

 現在の大山町御来屋・名和・西坪地区(近世の御来屋村、名和村、西坪村)の境にあり、石橋として利用されていた。名前の由来は公事料(荘園制で年貢以外の雑税や夫役(ぶやく)の総称)と関係があった、近くまで鯨が流れ着いた(町内にその鯨の骨を保存している方がいるらしい)、北側に処刑場があり晒し首(くび→くじらか?)にされたため、など様々な説がある。
 処刑場があったのは御来屋には鳥取藩の役所や蔵、牢獄があるなど現在の大山町の大部分にあたる地区の中心で人々の往来が多く罪人が投獄されていたためである。

(くじら橋)
くじら橋

(処刑場跡。こういう所には供養碑が建っていそうだが見当たらない。遠くに見える駅舎は御来屋駅)
処刑場跡

処刑場跡

処刑場跡

参考文献:名和町ふる里再見

感想:処刑場は数百メートル北側にあったという説もあります。処刑場は西坪になりますが隣の土地が御来屋になるため、便宜上、御来屋の処刑場跡としました。



前田神社(熊野さん)

●前田神社(熊野さん)
住所:鳥取県西伯郡大山町古御堂378(字 於局(おつぼね))
駐車場:なし

 祭神は稚日女命、大山祇命、稲背脛命、猿田彦尊、天鈿女命、大己貴命、素盞嗚命。創立年代は不明で、古来より押平神社の摂社で古御堂地区の産土神だった。利壽権現と称していたが明治元(1868)年に前田神社に改名する。この際に村内にあった末社の山神(祭神・大山祇命)と鷺大明神(祭神・稲背脛命)、道祖神(祭神は猿田彦命、天細女命)を合祀した。
 大正5(1916)年に大山町大塚の福田神社(祭神は大己貴命、素盞嗚命)、大山町古御堂の大代神社(祭神・素盞嗚命)、大山町押平の茶畑原神社(祭神・素盞嗚命)を合祀している。大正6(1917)年には大山町古御堂の熊野神社も合祀した。

 大代神社は字・代々屋敷(前田神社の北西)にあったが、天文年間(1532~1555年)に紀伊から勧請された熊野神社(字・後々路(同じく前田神社の北西))に御神体を移された。明治26(1893)年のことである。やがて上記の通り、両社とも前田神社に合祀されたが、熊野神社が疫病(流行り病)に効くと言われ岡山県や米子市、日野郡から参拝者が多く、前田神社が「熊野さん」と呼ばれていたという。

(全景。社叢に覆われている)
社叢

(周りは濠と土塁があり居館跡っぽいと思ったら、その可能性があるらしい)
濠と土塁

濠と土塁

(入口。手水鉢がある)
入口

入口

(燈籠と狛犬。かなり傷んでいた)
燈籠と狛犬

燈籠と狛犬

燈籠と狛犬

(昭和8(1933)年に建てられた鳥居)
鳥居

(拝殿と本殿)
拝殿と本殿

拝殿と本殿

(恐らくこれが移転された熊野神社)
熊野神社

(こちらも合祀された末社の一つだろうか)
末社

(屋根形石が上にある道祖神(サイノカミ))
道祖神

(御神木)
御神木

御神木

(うーん、居館跡っぽいと思って撮影した)
居館跡っぽい

参考文献:ふるさとを探ろう、鳥取縣神社廳、名和町誌、鳥取県神社誌、伯耆道祖神信仰の原像をさぐる : 淀江のサイノカミ

感想:鳥取縣神社廳には読みが「まえだ」となっていましたが、鳥取県は「まえた」と濁らないことが多いです。大山町の本には「まえた」となっており地元では濁らないのでしょう。
 参考文献のどこにも前田神社の社号になった経緯が載っていませんでした。地名か祭神のどちらかが関係あると思うのですが。