押平神社(後醍醐天皇の女官伝説)

●押平神社(塚宮神社)
住所:鳥取県西伯郡大山町押平172
駐車場:?

 主祭神は天之御中主尊、大山祗尊。創立年代は不明である。周辺の村の中心的な神社だったらしく、貞享元(1684)年には鳥取藩主・池田光政が造営に関わっている。近世までは押平大明神と称していたが、明治元(1868)年、現在の社名に改めた。大正5(1916)年、近隣の阿須波田神杜(同地区)と塚宮神社(同町大塚)を合祀している。
 塚宮神社の創建には次のような伝承がある。元弘3(1333)年の初夏、気品のある女性が大塚の地に上陸したのを、地元の五郎太夫が見つけ近寄った。
「自分は後醍醐天皇の女官で天皇にはお供させてもらえなかったため商船に乗って連れてきてもらった。天皇は伯耆にお着きになった後、どうされたか」
「船上山での戦いに勝利し京都に御遷幸された。あなた様が京都に戻られるまでの間、うちで休んでいって下さい」
「そなたの厚意に対して家名を与えよう。長く藤の蔓が延び栄えるように遠藤と名乗るがいい」
 しかし女官は長い航海のためか日に日に衰弱し、26歳という若さで亡くなってしまった。その後、未練を残した女官が霊としてさまよい祟りがあったため、塚の宮聖御前として祀ったという。

(鳥居)
鳥居

(古い狛犬)
古い狛犬

(この石は何だろうか。サイノカミを集めたもの?)
石

(随神門)
随神門

(新しい狛犬)
新しい狛犬

(拝殿)
拝殿

(本殿)
本殿

(同地区の付近から見た冬の大山)
大山

大山

(現在の大山町大塚の大雀地区。この地区に塚宮神社が建っていた)
大雀地区

感想:押平は「おしなら」と読みます。
 大雀の由来は天皇の関係者が休まれたので「王涼み」と呼ばれた、清水を飲まれたので「王清水」と呼ばれた、などの説があります。

参考文献:鳥取県の地名、名和町誌、鳥取県神社誌





金持景藤の墓(建武の忠臣)

●金持景藤の墓
住所:鳥取県日野郡日野町金持
駐車場:なし

 金持は「かもち」と読む。金持氏は当地を拠点とした武士でたたら製鉄に関係していたという。元弘3(1333)年、隠岐を脱出した後醍醐天皇が名和長年に助けられ船上山に籠もると、景藤は三百騎を率いて馳せ参じ鎌倉幕府軍と戦った。天皇の京都還幸の際、左に侍した。その後、足利尊氏が反旗を翻すと新田義貞らと共に金ヶ崎城に籠もって戦っている。
 この墓は景藤の家臣が鎧を持ち帰り埋葬し供養したと伝わる。

(入口。冬に行ったのだが荒れていた。夏は登るのが大変そう)
入口

(供養塔と顕彰碑)
供養塔と顕彰碑

感想:真庭市からの帰りに参拝しました。





防己尾城(羽柴秀吉軍を苦戦させた城)

●防己尾城
住所:鳥取県鳥取市金沢

 防己尾は「つづらお」と読む。吉岡将監の居城で羽柴秀吉軍を撃退したことで知られる。

(全景)
全景

(最初は駐車場から南西の遺構を散策)
駐車場

(南西は土塁、土橋、竪堀がしっかりと残っていた。虎口は土塁を壊して道を通したのだと思われる)
南西の遺構

南西の遺構

南西の遺構

南西の遺構

南西の遺構

南西の遺構

南西の遺構

南西の遺構

(西にある主郭に到着。碑と説明もある)
主郭

主郭

主郭

(北東に突き出した曲輪)
北東

(城は三方に湖山池がある。この船着き場(?)はもっと深く今の駐車場の辺りまで入り込んでいたと思われる。敵は東西の曲輪から狙いたい放題だな)
北東

湖山池

湖山池

湖山池

(東の曲輪群)
東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

感想:歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』を参考にしてください。

(ルートマップ)
ルートマップ