宗麟原供養塔(高城・耳川の戦いの両軍戦死者の供養塔)

●宗麟原供養塔(かんかん仏)
住所:宮崎県児湯郡川南町川南(字 湯迫)
駐車場:あり

 国指定史跡。天正6年(1578年)11月、南下してきた大友宗麟軍と防衛する島津義久軍が当地付近で激突した高城・耳川の戦いが起こる。この戦いで大友軍は敗北し豊後に撤退したが、島津軍もかなりの死傷者を出した。
 合戦直後、島津義久は新納院高城主・山田有信に敵味方の区別なく戦死者を葬るように命じている。天正12(1584)年の七回忌には島津義久が大施餓鬼(餓鬼道におちて飢餓に苦しむ亡者(餓鬼)に飲食物を施す意で、無縁の亡者のために催す読経や供養)を行うよう命じた。
 天正13(1585)年2月、宮崎市から石を運んで供養塔(六地蔵塔)を建てる。これが宗麟原供養塔である。

(入り口には碑が立っている)
入り口

(宗麟原)
宗麟原

(供養塔)
供養塔

供養塔

供養塔

(供養塔にある鐘。供養に来た人が打ち鳴らすことから供養塔は「かんかん仏」とも呼ばれる。鐘の銘文には「本来無東西 何処有南北 迷故三界城 悟故十方空」と刻んである。人は亡くなれば敵味方の区別もない世界に旅立つという意味らしい。ちなみに自分は鳴らしていない)
鐘

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県の歴史散歩、川南町役場しまづくめ、現地の案内板

感想:令和6(2024)年の大晦日の朝一番の史跡で、静かな気持ちで両軍の戦死者の鎮魂を祈りました。
 トイレと広い駐車スペースもあり参拝しやすいです。



巡洋艦春日の砲門(戦没者の慰霊塔)

●巡洋艦春日の砲門(戦没者の慰霊塔)
住所:鳥取県西伯郡大山町所子
駐車場:なし

 大正11(1922)年9月、帝国在郷軍人所子村分会長の松田大蔵が代表となって忠魂塔として廃砲と砲弾を譲り受けたいと海軍大臣の加藤友三郎に陳述した。これを海軍艦政本部が許可し舞鶴にあった巡洋艦・春日の四十口径十五糎(cm)砲身を一門と二十糎弾丸四個を無償で渡すことを約束している。
 大正12(1923)年春、砲身を舞鶴から貨物列車に乗せてもらい、帝国在郷軍人所子村分会は末長踏切りに3分間だけの停車の約束を取り付け(現在の大山口駅のある地区。この頃は駅ができる前だった)レールとソリで現在地まで運んで10月には忠魂塔を完成させた。記念式典では地元住民の仮装行列や軍人たちの銃剣術大会などが行われ盛況だったという。
 太平洋戦争後、忠霊塔の文字を慰霊塔と書き替えた。平成26(2014)年頃になると老朽化のため倒壊する恐れがあり撤去の話もあったが、その後、横にすることで倒壊する心配がなくなり撤去を免れている。

(平成26(2014)年の慰霊碑。古い砲身がこのように立っていては近隣の住民は不安だったであろう)
平成26(2014)年

平成26(2014)年

(平成29(2017)年の慰霊碑。安全にはなったが鉄なので何時まで保つのだろうか)
平成29(2017)年

参考文献:国立公文書館 アジア歴史資料センター、大山町誌、現地の碑文

感想:巡洋艦・春日は日本海海戦などで活躍したのだそうです。



日向 森田陣(庄内の乱での島津忠恒軍の本陣)

●日向 森田陣
住所:宮崎県都城市野々美谷町
駐車場:なし
遺構:空堀
標高:155メートル/比高:0メートル

 慶長4(1599)年に忠棟が京都の伏見で島津忠恒に殺害されると忠棟の子・忠真は島津家に反旗を翻す(庄内の乱)。志和池城は忠真の領地を守る12の外城の一つとして重視し整備され、島津軍も忠真の本拠地・都城を攻める橋頭堡として重視した。島津軍は志和池城に攻撃を加えると共に島津忠恒が南西に陣を構え(森田陣)、補給路を絶つ作戦に出る。
 伊集院軍は包囲を突破して兵糧を入れるなど抵抗したが、やがて食糧が尽き慶長5(1600)年には開城している。これを切っ掛けに他の城も落ちたため、忠真は徳川家康の仲介により忠恒に降伏した。

(下の縄張図の左上から続くのが森田陣。写真は島津中務陣跡になる)
島津中務陣跡

島津中務陣跡

(諸軍勢の陣跡)
諸軍勢の陣跡

諸軍勢の陣跡

(長寿院盛淳の陣跡)
長寿院盛淳の陣跡

長寿院盛淳の陣跡

長寿院盛淳の陣跡

(森田陣跡の案内板があった場所。家が取り壊された際に撤去されたようだ)
森田陣跡の案内板があった場所

(御陣跡かと思って撮影したが奥の森のようだ)
御陣跡

御陣跡

御陣跡

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、「不屈の両殿」島津義久・義弘

感想:遺構は分かりませんでした。県道420号線から東側の道に入れば空堀だったようです。何とも中途半端な城巡りになってしまいました。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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