三村家親宝篋印塔(興禅寺跡)

●三村家親宝篋印塔(興禅寺跡)
住所:岡山県久米郡久米南町下籾
駐車場:なし

 永禄9(1566)年、備中の成羽城主・三村家親は美作に侵攻し興禅寺に滞在した。これに対して宇喜多直家は備中の浪人で家親の顔を知っている遠藤兄弟を向かわせ狙撃を命じる。遠藤兄弟は見事、鉄砲での狙撃に成功し直家から賞された。
 興禅寺は明治5(1872)年、無住と檀家がないため廃寺となり明治44(1911)年に同じ地区の瑞泉寺に併合されている。寺の跡には家親の供養塔が建つ。

三村家親宝篋印塔

三村家親宝篋印塔

三村家親宝篋印塔

参考文献:岡山市史 第2、小田郡誌 上巻 増訂 (岡山県郷土誌叢刊) 、岡山県の歴史、津山瓦版

感想:南の建部町方面から行ったら山道で運転に苦労しました。宝篋印塔の南は民家、東は害獣除けの柵がしてあって近寄れなくなっています。


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備前 大仙山城(宇喜多氏との戦いに備えて築かれた城?)

●備前 大仙山城
住所:岡山県赤磐市草生
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、畦状竪堀群、堀切、井戸跡
標高:160メートル/比高:-10メートル

 詳細は不明。『改修赤磐郡誌』には「周匝茶臼山城の三の丸だが大字名が草生(くそう)のため大仙山城と名付けておく」とあり、『日本城郭大系』では周匝茶臼山城の出城とある。
 『日本城郭全集 第10』には文明年間(1469~86)年に地元の領主・楢原高重が築いて居城としたが周匝茶臼山城主・作佐部勘斎に攻められて降伏し出城になった。だが、天正7(1579)年に宇喜多直家の軍勢に攻められて茶臼山城と共に落城し高重が戦死。その後は宇喜多氏の家臣・延原弾正が居城としたという。しかし高重が100年以上も生きているなど矛盾が多い。『備前記』・『吉備温故秘録』などでは星賀(保鹿)藤内が城主だったという。
 浦上宗景に属して北辺防衛を担っていた時期のものであるという説と、茶臼山城よりも後に宇喜多氏との戦いに備えて急拠造られたという説があるが、はっきりとしない。

(入口。駐車場から近く)
入口

(下の概略図にある南の堀切群)
南の堀切群

(南の堀切群の北側の中央に土橋があった。この城は遺構の説明が各所にあり自分のような初心者には非常にありがたい)
南の堀切群

南の堀切群

南の堀切群

南の堀切群

(南の出城。横堀群らしいけど自分には出城が破城されたように思えた。しかしここだけ破壊しても意味がないので、ここを越えないと本城には行けなかったのだろう。今は道があるので関係無い)
南の出城

南の出城

南の出城

南の出城

南の出城

南の出城

(中央にある本城の入口の土橋の周辺)
土橋

土橋

土橋

(土橋の先にある土塁)
土塁

土塁

(土塁から北西に進むと堀があった)
堀

堀

堀

堀

(西側の畦状竪堀群。この城の注目ポイントの一つ。降りて見学するためのロープもあったが木に縛ってあったのかは確認はしていない)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(本城の北の端にある曲輪。土塁があった)
北の端にある曲輪

北の端にある曲輪

北の端にある曲輪

北の端にある曲輪

北の端にある曲輪

(北の堀切)
北の堀切

北の堀切

(戻って主郭の周辺(仮に二の丸とする)の北側)
二の丸

二の丸

(主郭)
主郭

主郭

主郭

(主郭の南側)
主郭の南側

主郭の南側

(更に南に進み二の丸に出ると溜池のような場所があった。土橋と堀があって、その堀の一部が残って池になったのだろうか)
二の丸

二の丸

二の丸

(二の丸の南西にある井戸。炭焼き窯の跡の可能性もあるらしい。昔は落ちないように網が張ってあったような形跡がある)
井戸

(あとは二の丸の周りを適当に見学)
二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

(二の丸の東の曲輪。ここにも池があった)
東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

(東端の曲輪。搦手らしい。北東に虎口がある)
東端の曲輪

東端の曲輪

東端の曲輪

東端の曲輪

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編、岡山県の地名、改修赤磐郡誌、備前周匝茶臼山城址発掘調査報告書

感想:ご覧の通り整備がしてありコースから外れなければ危険なことはありません。ただし竪堀群の遺構をはっきりと見ようとしたら多少の危険が伴います。
 比高ですが私の場合は登山道の入口から山頂までの差を記載しています。入口から下がった後、上がるため入口より山頂の方が標高が低くマイナスになっています。
 カーナビで目的地をここに設定すると南側の吉井中学校城南校舎跡方面から行かせようとしますが通れないため、北側の吉井B&G海洋センターから行ってください。徒歩ならどちらでも問題ないと思います。

(概略図。クリックすると別タブが開きます)
概略図


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備前 周匝茶臼山城(周匝(すさい)城。浦上宗景の家臣・佐々部(笹部)勘斎の居城)

●備前 周匝茶臼山城(周匝(すさい)城)
住所:岡山県赤磐市周匝
駐車場:あり
遺構:曲輪、畦状竪堀群、堀切
標高:171メートル/比高:30メートル

 市指定史跡。北と東に吉井川が流れ、北東で吉井川が大河の吉野川と合流する水運の要衝にあり美作との国境とも近かった。築城年代は不明だが城主は浦上宗景の家臣・佐々部(笹部)勘斎だという。築城者は勘斎の父で天文年間に安芸から来た勘解由との推測が現地の説明にはある。『備前記』では城主は星賀藤内で天文22(1553)年に尼子晴久が美作に攻め込んだ際、茶臼山城も攻められ落城したとある。
 天正5(1577)年、宇喜多直家が浦上宗景の居城・天神山城を攻撃し落城させた際、茶臼山城も宇喜多勢に攻められるが撃退。しかし天正7(1579)年、再び宇喜多勢に攻められ落城し勘斎と息子の仙千代は麓の一ノ谷で戦死した。
 昭和時代後期、当時の吉井町が始めた「歴史とロマンの里づくり事業」により現在は歴史公園として整備されている。

(竪堀A。場所は下にある概略図を参照)
竪堀A

(主郭と思われる曲輪Ⅰ。第二次世界大戦では敵機監視所が設置されるなどして遺構の大半が破壊されたという。模擬(?)城門と模擬天守(展望台)などがある)
曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

(模擬天守と内部。見つかった遺物の展示や歴史の解説があった。像は良く分からん)
模擬天守と内部

模擬天守と内部

(模擬天守から南側を望む。中央に流れるのが吉井川)
吉井川

(曲輪Ⅰにある休憩所と竪穴式住居。休憩所は近世末期に吉井川沿いに建てられた商家を移築した。竪穴式住居は発見された大型竪穴遺構の上に復元されている)
休憩所と竪穴式住居

休憩所と竪穴式住居

休憩所と竪穴式住居

(主郭の北にある曲輪Ⅱ)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(主郭の南東にある曲輪Ⅲ)
曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

(曲輪Ⅲの南東にある曲輪Ⅳ)
曲輪Ⅳ

(曲輪Ⅴ)
曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

(竪堀B)
竪堀B

竪堀B

(竪堀C)
竪堀C

(畦状竪堀群D)
畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

(竪堀E。通称・空堀体験コース。鎖があって安全に降りられるようになっていた。竪堀Bと繋がっていると思われるが確認していない)
竪堀E

竪堀E

竪堀E

(曲輪Ⅵと主郭との間にある竪堀(堀切?))
曲輪Ⅵ

(曲輪Ⅶとその周囲の曲輪群。ここは整備されていない)
曲輪Ⅶ

曲輪Ⅶ

曲輪Ⅶ

(堀切F。道路を通す際に分断されている)
堀切F

堀切F

(城の全景)
城の全景

(順番が逆になるが、朝早く出たので途中でお腹が空いて城の近くにある就労継続支援A型福祉の店『きずな』で食事をしてから城に行った。固めのうどんだった)
うどん

うどん

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編、岡山県の地名、現地の案内板、改修赤磐郡誌、備前周匝茶臼山城址発掘調査報告書

感想:一般の方にも分かりやすいよう模擬天守がありながら、竪堀なども破壊せず見学しやすくしており駐車場もあります。個人的には整備としては満点でした。
 カーナビで目的地をここに設定すると南側の吉井中学校城南校舎跡方面から行かせようとしますが通れないため、北側の吉井B&G海洋センターから行ってください。徒歩ならどちらでも問題ないと思います。

(概略図。クリックすると別タブが開きます)
概略図


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