鹿王山龍文寺(陶一族の墓)

●鹿王山龍文寺
住所:山口県周南市長穂門前1075-1
駐車場:あり

 曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏。永享元(1429)年、陶盛政が大寧寺(山口県長門市)の住職・在山曇璿を招き、陶氏の菩提寺として創建した。在山曇璿は福昌寺(鹿児島県鹿児島市にあった島津家の菩提寺)の竹居正猷を招いて開山とし、竹居正猷は二世となる。
 文亀4(1504)年、曹洞宗の総本山である永平寺から、山陰・山陽・西海の総僧録(寺院を統轄し、人事を司る僧職名)に任命された。末寺は周防、長門、備後、安芸、出雲、石見、伊予、筑前、肥前、紀伊、近江、山城と大内氏の勢力圏を中心に広範囲に及んだ。永正5(1508)年に火災が発生したが、これは陶氏が寺の秘宝を無理やり閲覧した仏罰だと伝わる。
 弘治元(1555)年、毛利元就に厳島の戦いで陶晴賢が敗れ、本拠地の富田若山城を攻められた陶氏最後の当主・陶長房は龍文寺で自害した。この時、長房は龍文寺に立て籠もって抵抗していたが、毛利軍に味方した杉重輔が周方神社の祭礼踊りに紛れて境内に乱入した。観念した長房は自害したという。この踊りは「長穂念仏踊り」として、現在は県の指定無形民俗文化財になっている。
 毛利氏が防長を支配した後も庇護を受け、近世には萩藩からも保護された。寛永16(1639)年に火災があったが萩藩によって再建される。しかし、明治14(1881)年にも火災が起き古文書や什器などが焼失した。寺宝には市指定文化財の鉄製茶釜がある。

(明治の火災を免れた楼門。市指定文化財である)
楼門

楼門

(本堂)
本堂

(陶氏墓所。陶弘護の義理の父である益田兼堯と陶興房の妻の墓は分かっているらしい)
陶氏墓所

参考文献:大内文化散歩、周南地方史話、徳山市史 下、現地の案内板

感想:天気も悪かったため墓地が薄暗かったのを覚えています。



富田山建咲院(陶興房の墓)

●富田山建咲院
住所:山口県周南市土井1-5-1
駐車場:あり

 曹洞宗。本尊は釈迦如来像。文明14(1482)年、陶興房が両親の菩提を弔うために建立した。寺号は父・弘護の法名「昌龍院殿建忠孝勲大居士」と母・益田氏の法名「龍豊院殿咲山妙所大姉」から一字を取って建咲院と命名する。開山は、陶氏の菩提寺だった龍文寺(山口県周南市長穂門前)の大悦薫童である。
 弘治3(1557)年、毛利元就は富田地方の大内氏の残党を討つため勝栄寺に滞在した。その際、建咲院の住職・隆室に受戒(仏の定めた戒律を受けること)され、礼として、香合、九条袈裟、血脈袋などを寄進している。
 その後、毛利輝元からの庇護も受け寺領が125石に増えたが、徳山藩が成立すると全て没収された。寛永9(1632)年に8石の寺領を安堵されたものの、寺の維持に十分な収入とはならなかったため、住民への教化活動に力を入れ、檀家の獲得と末寺の開拓を行う。
 元治元(1864)年、第一次長州攻めが始まると、徳山藩の山崎隊が陣屋としたため、末寺の万福寺(山口県周南市須々万、当時は周南市川崎)に移った。その間、本堂では隊士が切腹し伽藍は管理されないまま荒廃するが、明治17(1884)年に再建される。
 寺宝には上記の元就から寄進された香合、九条袈裟、血脈袋、坐具、念珠、瓢形水晶(全て県指定文化財)などがある。

(山門)
山門

山門

山門

(本堂。2008年に行った時は参拝できたのだが・・・)
本堂

本堂

(観音堂。浄法寺の観音堂を寛永5(1625)年に徳山藩主の毛利就隆が移転した)
観音堂

(2008年と2020年の陶興房の墓)
陶興房の墓

陶興房の墓

参考文献:山口県の地名、南陽町誌、新南陽市史、徳山市史 下、現地の案内板、陶の城@周防山口館周南市公式サイト

感想:陶興房の墓に参拝すると、眼下に「とんかつ濵かつ」があるので時間帯によっては食べたくなるのですよね。



万福寺(鳶ヶ巣城主・宍道政慶の祈願所)

●万福寺
住所:島根県出雲市武志町904ー1
駐車場:あり

 臨済宗。もとは天台宗であったと推測されている。鳶ヶ巣城主・宍道政慶が創建し祈願所としたと伝わる。永禄年間(1558~70年)、出雲で起こった尼子氏と毛利氏の合戦で亡くなった人々を弔うため創建されたという説もある。

(鐘楼門)
鐘楼門

(本堂)
本堂

(近世後期、武志村には馬草(牛馬の飼料にする草)が生い茂り生活の糧になっていた。だが隣の中野村の住民が勝手に取るため、武志村の太田半兵衛と岡田祐蔵が藩に強訴した。これが御法度だったため両人は斬首されている。大正5(1916)年の百回忌に慰霊のため武志義民の碑が建てられた)
武志義民の碑

(六地蔵だったかな)
六地蔵

感想:『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。