神輿を担ぐ者たちが逃げた! どうしましょう?(防府天満宮文書の市川経好書状)

・原文
防府松崎天満宮御興二躰内一躰分、駕輿丁退転之儀、自社家中被遂注進候、去年之儀者申談如此一通遣置候き、以此辻自社家被申候、可為如何候哉、彼駕輿丁退転分於理者自社家可被申上候、御伺候て可被仰下候、恐憧謹言
九月廿日 (市川)経好
竺雲恵心

・意訳
 防府天満宮の神輿の一体について駕輿丁(かよちょう。輿をかつぐことを職としている者)が役目の途中で逃げてしまったことについて、社家(神職たち)からこちらに報告がありました。昨年の件については話し合って手紙を送っていました。今回のことは社家から竺雲恵心様に報告があったそうですが、どのように対応しましょうか。
 その駕輿丁が逃げた理(ことわり。理由、事情)については社家から恵心様に説明されます。この件について恵心様に伺って指示をいただきたいです。

・感想
 毛利一族に信頼されている竺雲恵心に対応を求めている内容のようです。現代の感覚で自分が「神輿を担ぐ人がいないなら、誰でもいいから連れてきて担がせればいい」と言ったら、「昔は担げる人に条件があったので、そんなに簡単にはいきません」と窘められました。感覚的にそうだろうなとは思っていましたが。
 担ぎ手がいないということは祭礼が実行できないため、防府天満宮や毛利家にとっては一大事だったようです。

(防府天満宮)
防府天満宮

祭礼に使う作り物を乗せる台車が全部燃えちゃった(防府天満宮文書の大内氏奉行人(岡部興景)書状)

 かなり前に勉強のために読んだが、意訳に苦労した防府天満宮文書の大内氏奉行人(岡部興景)書状を載せてみる。

・原文
来十月当社御祭礼之時、作物台車事悉焼失候、就其当役之儀乗福寺大工新兵衛存知仕候処、彼調迷惑之由候然者於宮山松本一本申請度之由興景迄申候、可為如何候哉、一本採用仕之様御領納候者可目出候、且者又社用にも候欤、前々車木朽損候ヘハ、於当社山木一本給候て致其調候へ共、近年者各頭人自分以了簡相調之由申候、今以雖其覚悟候、悉車失却候之間、如此懇望候、併不准例儀候間、被成御心得候者肝要候、恐々謹言、
大永四年八月廿三日 興景
松崎大専坊御同宿御中

・意訳
 来月の十月にある防府天満宮の祭礼の時に使用する作物(種々の人や物などの形を作りかざった、祭礼などの時の出しもの)を乗せる台車がことごとく焼失してしまいました。それについて製作の役職にある乗福寺の大工・新兵衛は知っており「調達するのは難しいです。それなら宮山(防府天満宮の所有する山)の松の木を一本使いたい」というお願いが私にありました。
 この件はどうしましょうか。もし大専坊が許可していただけるなら嬉しいです。それに松の木は防府天満宮の他の用途にも使えるのではないでしょうか。以前は台車が傷んだ時は防府天満宮の山の木をいただいて修理や新車にしていましたが、近年は頭人(祭礼の世話役)が「自分たちの裁量でどうにかする」と言っています。今もその気持ちはありますが、今回は全ての台車を失ってしまったため、松の木の提供をお願いしたいです。
 しかし先例にないことですので、大専坊にはそのことを理解していただくのが大事です。恐々謹言。

・感想
 読み下しにするのは難しくなかったが、意訳にする際、主述が分からず混乱した。
 出しものを乗せる台車が全て燃えて来月の祭礼に使える車がないという危機。結局、大専坊は許可したのでしょうか。そこは書いてなかったが、許可したと思います。
 先例のことに触れているのは、先例があると次に似たようなことがあった際「あの時、松の木をくれましたよね」となるからだろう。

(防府天満宮)
防府天満宮

第一回 尼子再興の旅 総括(尼子充勇士の会)

実施日:2025年10月4日(土)
探訪先:月山富田城/長台寺/雲樹寺/清水寺/川中島一騎打ち跡/品川大膳墓所/洞光寺/三日月公園

 まずは第一回尼子再興の旅へご参加いただいた方々へ感謝を!
 今回のイベントは朝から天気が優れず足元が悪い中での開始でした。
 全員が山城登山には慣れているとはいえ、午前中の「月山富田城」では予想以上の大雨で立ち往生する事態も発生し…。
 しかしながら、雲に隠れる月山富田城を見ることが出来たことはある意味で貴重な体験だったと思います。

月山富田城

 午後からは長台寺城へ登る予定でしたが、天候が回復せず長台寺への参拝で終え、そのまま急遽「雲樹寺」へ。
 久しぶりに雲樹寺を参拝させていただきましたが、相変わらず厳かな雰囲気でした。

雲樹寺

 更に「尼子氏縁者の墓」なるものがあり、果たしてこれは何なのだろうと、皆さんと話をしていました(どなたか詳しい方がおられたら是非教えて下さい)。
 ちなみに、雲樹寺の付近には岩崎姓の方も多くおられますので、その関係でもあるのかもしれませんね…?

子氏縁者の墓

 その後清水寺を参拝しました。この頃になると雨も小康状態となり、水の流れる音を聞きながら参拝させていただきました。
 いつもは多い参拝客もさすがにこの日は少なく、落ち着いた中で見て回ることが出来ました。
 清水寺といえば前回の「尼子語り」の中でも触れられていましたが、鰐淵寺との間で繰り広げられた「左座論争」が有名ですね。これは尼子氏と地元宗教勢力とのパワーバランスを知ることができる貴重な出来事だと思います。
 あとは道中で話題にも出ましたが、天気が良ければ「鹿介の槍砥石」も見に行きたかったのですが、そこは次回のお楽しみということで…。

清水寺

 清水寺を後にしたところで、(長台寺城に登らなかった分)かなり時間が余っていたので、広瀬町内に戻り、月山富田城周辺の尼子関連史跡を巡ることに。
 まずは第二次月山富田城の戦いの折に山中鹿介と品川大膳が一騎打ちを行った川中島一騎打ち跡へ。

一騎打ち

 そしてその一騎打ちで敗れた品川大膳の墓所を訪れました。
 どちらも草が生い茂ってはいたが、史跡自体は健在だったので、そこは安心しました(笑)

品川大膳の墓所

 そのまま歩いて洞光寺へ。ここは尼子氏の菩提寺で、尼子経久とその父である尼子清定のお墓があります。
 実は洞光寺を参拝するのは久しぶりでした。この時は境内が大量の銀杏で溢れており、その香りの中で季節を感じながらお墓参りをさせていただきました。

尼子父子の墓

 洞光寺を後にし、清酒月山でお馴染みの吉田酒造さんの酒蔵を見つつ、最後は三日月公園へ。経久公御本人(?)へ謁見しました。

経久

 終わってみれば当初の計画とは大きく違った尼子再興の旅となりましたが、結果的に私個人も満足できたイベントになったと思います。
 参加者の皆さんとの交流の中で、貴重な知識や情報を知ることが出来たのも大きかった!
 そう考えると、雨に降られたことも良い七難八苦だったと思います。
 皆さん本当にお疲れ様でした!
 最後になりましたが、昼食で利用させていただいた「中海の郷」様、道中の休憩で利用させていただいた「サムライの昼寝」様、懇親会で利用させていただいた「炉端かば」様にも感謝いたします。どこも美味しい料理で、是非また利用させていただきます!