中山道好(道光)の墓(羽柴秀吉の摩尼寺焼き討ちに抵抗した僧)

●中山道好(道光)の墓
住所:鳥取県鳥取市覚寺
駐車場:摩尼寺参拝用の駐車場を利用

 道好(道光)は医師だったが出家して摩尼寺に入った僧だった。天正9(1581)年6月、羽柴秀吉が鳥取城を攻めるため周囲の寺社を焼き払ったが摩尼寺は残し、道好を本陣に呼んでもてなすなどした。しかし帰る際、摩尼寺が燃えているのを見て怒り大木の松を引き抜いて焼いたと思われる反対側から来た秀吉軍の兵を打ち倒す。そして岩窟を掘って、その中で亡くなったという。
 安政5(1858)年、地元の住民がその岩窟から両手を組んで仰向けになった白骨死体を見つけ不動明王の供養塔を建てた。
 道好にはもう一つ逸話がある。鳥取市百谷に続く百谷越で何人かの修行僧が大蛇に襲われるということがあった。そこで道好は藁人形を作って竹胴の中にモグサを詰めて火をつけ袈裟を被せて僧に見えるようにして運ぶ。大蛇は僧と見間違え呑み込んだが、腹の中で藁人形が燃えさかり苦しんでいるところを道好が斬り捨てた。だが、尾だけが飛んで百谷の姫ヶ谷(姫木谷)で暴れ回ったため、住民は鳥取市田島に引っ越しを余儀なくされたという。

(道好の墓を参拝するには摩尼寺への石段を登らず道沿いに歩いて山道に入る)

(途中で左手に登る道があるので、そこを上がると辿り着く)
登る道

(道好の墓(供養塔)。後ろに見えるのが岩窟で、思っていたより狭く人が一人入れる程度だった)
道好の墓

道好の墓

感想:場所が分からず近所の方に尋ねたら、教えていただいた後に「昔は参拝客が多かったが今は見ないねえ」と仰っていました。これだけの逸話があるので何か御利益があるという伝承でもあったのでしょうか。詳しく調べていないので不明です。



周防千葉城(宇賀島衆の拠点の一つ)

●周防千葉城(せんばじょう)
住所:山口県熊毛郡上関町室津(字・千葉)
駐車場:鳥居の前に駐車スペースあり
遺構:なし
標高:110メートル/比高:31メートル

 築城年代は不明だが瀬戸内海の海賊・宇賀島衆の山城だった。瀬戸内海に突き出ており対岸の平郡島などが一望できる位置にある。周防を支配していた大内氏が戦功で海賊の村上氏に当地を与えたことにより、上関周辺の海では宇賀島衆と村上氏が争っている。弘治元(1555)年の厳島の合戦で陶晴賢に味方したため宇賀島衆は没落し当城も廃城になった。城址には千葉稲荷神社が建っている。

(鳥居)
鳥居

(参道)
参道

(奉納された鳥居)
鳥居

(急な石段が続く。途中、曲輪群のように見える場所があったが・・・)
石段

石段

石段

(千葉稲荷神社)
千葉稲荷神社

千葉稲荷神社

(神社から東を望む。中央に見えるのは下荷内島。木が無ければ本文に書いたように平郡島も見えたのだが)
瀬戸内海

感想:稲荷神社が曲輪を利用して建てられたのかもしれませんが山口県教育委員会の報告書では消滅したとなっています。



備後山伝城(高橋式部大輔恭光の居城)

●備後 山伝城(さんでじょう)
住所:広島県世羅郡世羅町宇津戸
駐車場:不明
遺構:曲輪、竪堀
標高:341メートル/比高:38メートル

 永享年間(1429~41)、海裏荘(うつとのしょう。現在の世羅町宇津戸)の代官・高橋式部大輔恭光が居城にしたという。永正18(1521)年、今高野山城主・上原豊将(のちに毛利元就に仕え息子は元就の娘を妻としている)に攻められ落城した。

(全景)
全景

(主郭には祠が建っていた。竪堀は分からなかった)
主郭

主郭

主郭

主郭

参考文献:世羅町のイベントの資料

感想:世羅町の企画(山城探訪)に参加した際、訪れました。高橋恭光は名前からして石見高橋氏の一族のようだが・・・。出丸は場所が分からず撮影していません。

(縄張図)
縄張図


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