寺沢広高の墓(肥前唐津城主)

●寺沢広高の墓
住所:佐賀県唐津市鏡(字 宮ノ原)
駐車場:墓の入口に駐車スペースがあり

 寺沢志摩守広高(永禄5(1562)年?~寛永10(1633)年)は織田信長に仕えた尾張出身の寺沢広政の長男。広高は豊臣秀吉に仕え、慶長5(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、それまでの領地に加え天草4万石が加増され肥前唐津12万石の大名となった。
 その後、唐津城を築き市内の中心を流れる松浦川の治水事業を行い潮風を防ぐ防風林を植樹させ(虹の松原)、唐津市の基礎を築く。そのため命日の4月11日には市内の各集落では「志摩さま祭り」が昭和時代になっても行われていたという(現在は不明)。
 墓は広高の遺言に従って鏡神社の境内の北側に建てられた。高さ約6メートル、幅約1.5メートルの巨大なもので、正面は「前志州大守休甫宗可居士」、左面は「寛永第十癸酉年」、左面には「孟夏四月十一日」と刻まれている。
 鏡村(唐津市鏡)の村人は墓守料として年貢の一部の免除されたので、現在でも墓守を続けているという。

(案内がある)
案内

(入口。写真の向かって右に駐車できるスペースがあった)
入口

入口

(手水舎があるが水がない。心の水で浄めてください)
手水舎

(墓の全景。向かって右の森の先に鏡神社があるが、森を通って直接参拝するのは無理そうだったので遠回りでも鋪装された道を使った方が良い)
墓の全景

(墓石。写真では分からないと思うが圧倒される大きさである)
墓石

参考文献:佐賀県の地名、佐賀県の歴史散歩、歴史残花、苓北町史、詩と史の松浦潟 2版

感想:墓のある北側の道を通ったのですが、そこから南下するため左折をするのが大変だった記憶があります。詳しくは下の地図で確認してください。
 なので南から神社の西側に沿った道を走った方が楽かもしれません。



宝樹山龍津寺(小田資光の墓、月海元昭(売茶翁)の顕彰碑)

●宝樹山龍津寺
住所:佐賀県佐賀市巨勢町東西137-5
駐車場:なし

 黄檗宗。佐賀藩の支藩・蓮池藩の藩主が化霖道龍に帰依し、道龍を開山として龍津寺を創建した。昭和20(1945)年のアメリカ軍の空襲によって焼失し廃寺となった。

(入口。軽自動車ならギリギリ入れるくらいの狭さだったため、自分は入らなかった)
入口

(像)
石像

(焼失後に建てられたと思われる建物)
建物

(月海元昭(売茶翁)の顕彰碑。元昭は龍津寺の化霖道龍の弟子となり、各地で黄檗宗、曹洞宗、臨済宗を学んだ。のち京で茶を売りながら放浪生活を送り、売茶翁の名で知られる。煎茶の祖として崇敬されている)
月海元昭(売茶翁)の顕彰碑

(蓮池城主・小田駿河守資光の墓。小田氏は龍造寺氏の軍門に降り、勢福寺城攻めに小田政光が加わるが戦死。政光の喪中に龍造寺隆信が小田氏の居城・蓮池城を攻め落とした。隠居していた祖父の資光は落城を知り自害する。資光は蓮池の徳恩寺に葬られたが祟りが続くということで龍津寺に移された。大きな宝篋印塔が資光の墓で、奥の塔は小田氏への賛辞が刻まれている)
小田駿河守資光の墓

(全景)
全景

参考文献:佐賀県の地名、佐賀市公式サイト

感想:周辺に車を駐めるところがなくて周りを何周もしていました。
 私は小田資光の墓の参拝に来たのですが、一般には元昭修行の寺として知られているようです。



常住山本行寺(江藤新平、成富兵庫茂安、龍造寺胤家の墓)

●常住山本行寺
住所:佐賀県佐賀市西田代1-4-6
駐車場:あり

 日蓮宗。肥前の国人・龍造寺胤家が筑前に滞在中、諸国を廻っていた下総の僧・日政と交流があり、永正15(1518)年に佐賀城の北に本行寺を創建する際、日政を開山とした。以来、胤家の系統の与賀龍造寺の菩提寺となる。慶長15(1610)年、佐賀藩主・鍋島勝茂が現在地に移転する。現在の本堂と毘沙門堂は文化3(1806)年に再建された。
 明治7(1874)年に佐賀の乱を起こした江藤新平の軍が本行寺に駐屯した際、当時の住職が物資を提供したと伝わる。
 胤家が祖父から譲り受けた本尊の毘沙門天立像は佐賀市の重要文化財に指定されている。鬼子母神も祀っていることから小児の守護を願って参拝する者も多い。

(入口)
入口

(参道。確認していないが有名な方が寄進した燈籠もあったのだろう)
参道

(境内。中央には日蓮さんの像が立つ)
境内

(本堂の再建と一緒に建てられた狛犬)
狛犬

(明治維新で活躍したが佐賀の乱で政府に敗れ処刑された江藤新平の墓。墓碑は副島種臣の筆である。最初は佐賀市鍋島の蓮成寺に葬られていたが、病気平癒や兵役を免れられるなどの御利益があるということで参拝者が多く、大寺院の本行寺に改葬された)
江藤新平の墓

江藤新平の墓

(成富兵庫茂安の墓。竜造寺家、鍋島家に仕え数々の戦功があった。治水事業に尽力したことから地元の方に慕われている。ここには遺髪が納められている)
成富兵庫茂安の墓

(鍋島直弘の墓(正面)。佐賀藩主・鍋島勝茂の四男で成富兵庫茂安の養子となり、白石鍋島家の初代となっている)
鍋島直弘の墓

(龍造寺胤家の墓(中央))
龍造寺胤家の墓

参考文献:佐賀県の地名、佐賀県の歴史散歩、佐賀市公式サイト、与賀竜造寺記録 附本行寺由緒 清心院由緒

感想:寺の前を通る国道207号の交通量が多いため出入りに難儀しました。